なぜ社会的弱者を虐めたり、差別したり、軽蔑したりしてはいけないか?

残念なことに、どこの社会でも
社会的弱者は一定数存在する。

今回は、なぜ私たちは
社会的弱者を虐めたり、
差別したり、軽蔑したり
してはいけないのか?

その理由について
考えたい。

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まず最初に、社会的弱者とは
どのような人たちだろうか?

それは、
何らかの理由や事情により、
平均的な人よりも
かなり不利な状況に置かれており、
日常生活に何らかの不自由があり、
弱い立場にある人たちのことだ。

具体的には、障害者や、
重い病気に苦しむ人々、
ホームレスや
生活保護を受けている人々、
社会的マイノリティーの人々
などが挙げられる。

彼らは
社会生活上の様々な点で、
ハンディーキャップを背負って
生きている。

人間は、
自分自身が経験したことには
熟知しているが、
経験のないことは
把握しにくいという傾向がある。

恵まれた環境で生まれ育ち、
体に不自由がなければ、
それが当たり前だと思い、
社会的弱者の人たちの立場は
理解し難い。

彼らがどのような気持ちで
生活しているのか、
感覚がつかめず分からない。

普通に生活できることが
当たり前であり、
今の現状がずっと続くだろうと思い、
自分はそのような状況には
陥らないと信じている。

それゆえ、
社会的弱者を目にすると、
心の中で不快感を抱いたり、
差別的な思考に陥ることもある。

しかし、それは
好ましいことではない。

社会的に弱い立場にある人々を
軽蔑したり、差別することは、
倫理的にも道徳的にも許されない。

人間は、単に能力や財力によってのみ
評価されるべきではないからだ。

人間である限り、
どのような状況にあっても、
個人の尊厳と人権を尊重し、
平等に扱うことが重要だ。

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社会的弱者に対して、
差別や軽蔑、虐めをしては
いけないということは、
倫理的に許されないだけでなく、
他にも理由がある。

その理由とは、
誰でも一歩間違えれば、
レールから外れて
人生が狂いだすことが
少なくないことだ。

だからこそ、
今は自分とは無縁だと思っていても、
どんな人でも
社会的弱者になる可能性がある
ということを忘れてはいけない。

例えば、一流大学卒、一流企業に入社して、
そこでバリバリ活躍していた超エリートでも、
人事異動でパワハラ上司の下で
働くようになってから、
上司のあまりの理不尽さに耐えられず、
仕事を辞めてしまうこともある。

その後、重度の鬱病に罹り、
住む家も失い、
ホームレスになるようなことも、
絶対に起こり得ないとは言えないのだ。

生まれつき体が丈夫でタフな人でも、
突然、交通事故に遭い、半身不随となり、
車椅子がなければ、
生活できなくなることもある。

自分は安全運転
していたにもかかわらず、
相手の過失により、
こうなってしまうこともあるのだ。

今まで病気をしたこともない人が、
最近調子が良くないので、
病院へ行って検査を受けたところ、
難治性の重病に罹っていた
なんてこともある。

子供たちも一番お金のかかる時期に、
一家の大黒柱が
こういう事態に陥って、
働けなくなることも
起こり得るのだ。

ビジネスで大成功していたのに、
予期しなかった自然災害のために、
会社経営に大きなダメージを受け、
すべてが上手く回らなくなることもある。

例を挙げればきりがないが、
人間は些細なきっかけで、
今までは普通に生活していたのに、
その生活が困難になることも多々ある。

何かしらの原因で環境が一変し、
逆境に陥れば、
自分自身も今まで想像もしなかった
厳しい状況に陥ることもある。

ある出来事が起こってから、
強かった人が弱くなってしまう
という話もよく耳にする。

この世界では、
いつ何が起こるかは分からない。

今は安泰でも、
これから先もずっとそうである
とは限らない。

誰でも「明日は我が身」
ということが起こり得るので、
社会的弱者を
自分とは全く無関係なものとして
考えることは慎むべきだ。

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人生には
自分の努力や頑張りで、
コントロールできるものもあれば、
どんなに自分が頑張っても、
自分の力では
どうにもならないものもある。

仕事や人生が成功している場合、
自分が一生懸命やったから、
自分のお陰で
すべてが上手くいっている
と自負する人も多い。

確かにそれは
部分的には正しいだろう。

しかし、
それだけではないはずだ。

自分の環境とか、
自分の周りにいる人たちとか、
自分とは直接関係のない
外部の力に影響を受けることも
大きいからだ。

仏教的な考え方をすれば、
自分自身の努力や頑張り、
望ましい行いは「因」の部分。

それに対して、
外からの作用によって
自分の身に降りかかるものを
「縁」の部分と言う。

自分の成功は、
自分の努力という「因」と
外からの力である「縁」が
合わさったときに起きるもの。

「因」だけでも、「縁」だけでも、
成功するという現象は
起こらないのだ。

残念ながら、
自分の努力や頑張りだけで
すべてが上手く回るわけではない。

自分でコントロールできない何かに
邪魔されてしまうことも
よくあることだからだ。

人間は縁によって、
どうにでもなってしまう生き物だ。

生活保護を受けている人や、
ホームレスを忌み嫌っていても、
私たちは誰もが「縁」があれば、
そうした立場になり得るのだ。

障害者は嫌だと言っても、
縁が来れば、瞬く間に
障害者になることだってある。

そう考えれば、
社会的弱者のことを
差別したり、軽蔑したり、
非難したり、虐めたりする気持ちは
なくなるはずだ。

自分だって
その可能性があるからだ。

すべての生命は輪廻転生している
という仏教的な考え方をすれば、
今世は恵まれた環境で
幸せに生きられるかもしれない。

しかし、来世は必ずしも
そうとは限らない。

縁が変われば、簡単に
逆さまになってしまうからだ。

最初から、血統とか、
血筋とか、人種とか、民族とかで
優劣が決まっているわけではない。

能力や財力が高い、低いも、
縁が変われば、すべてが逆転する。

そういう意味では、人間は
どんな人でも平等であり、
同じようなものだと言える。

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今回の話をまとめれば、
社会的弱者とは、社会的な立場が
弱いとされる人たちのこと。

彼らは、様々な理由や事情によって、
社会的に弱い立場に
追いやられてしまった人たちだ。

そのため、平均的な人が
普通にできることが
彼らにとっては困難な場合が
しばしばある。

しかし、彼らは
劣った存在ではない。

彼らを差別したり、軽蔑したり、
虐めたりすることは、
倫理的にも間違っている。

そうすることで、
彼らを更に苦しめるだけでなく、
私たち自身にとっても
マイナスの影響があるからだ。

さらに、私たちは誰でも、
自分が社会的弱者になる可能性が
あることを忘れてはならない。

今は大丈夫でも、いつ何時、
自分ではどうにもならない
外部の力によって、
自分も社会的弱者になることが
あり得るからだ。

自分がいつか
社会的弱者になった場合、
誰かの優しさや支援が
必要になることもあるだろう。

このことが分かれば、
社会的弱者の立場にいる人たちを
非難したり、忌み嫌ったり、
差別することは
正しいことではないと
理解できるはず。

そして、
「もしかしたら、いつか自分も」
という気持ちで、
社会的弱者を暖かく見守り、
彼らが自分でできないことは、
協力する姿勢を持つことが大切だ。

それによって、
私たちはお互いを助け合い、
より良い社会を
築いていくことができるからだ。