まともな人ほど「ぼっち」になりやすいのは、なぜ?

今回は、
まともな人ほど
「ぼっち」になりやすいのは、
なぜなのか? について。

その理由は、
世の中の多くの人たちが
同調圧力に負けてしまい、
自分を生きられないのに対して、

まともな人ほど
周囲に惑わされることなく、
自分の信じる道を
突き進める少数派だからだ。

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学校の虐めを見れば、
分かりやすい。

虐められる子を
皆で攻撃して、
仲間外れにする。

虐めには
必ず中心人物がいて、
大多数はそいつに同調する。

なぜなら、その中心人物は
声がデカくて、
強く見えるからだ。

本心では
「そんなに虐めたら可哀そう」
と思っているのに、
威圧的で威張り屋の
虐めっ子に逆らえず、
自分も虐めに加わってしまう。

さもなければ、自分も
虐められてしまうと
心配するからだ。

それでもクラスの中には、
数は少ないけれど、
「虐めてはいけない」と
道徳心を持ち、
虐めをしない人もいる。

こういう少数派は
虐められている子にも
普通に接することができる。

これは、
かなり勇気の要ることだ。

ほとんどの子は勇気がなくて、
横暴で暴力的な虐めっ子に
従っているが、

まともな子供は、
自分はその他大勢に同調せずに、
自分が信じたことを
貫いている。

なぜそうできるかは、
勇気があって、しっかりと
生きている子供だからだ。

こういう人こそが
まともな人だと言える。

数少ないまともな人間は、
同調圧力に負けてしまう
大勢の人たちの中に入れば、
孤立した存在に見える。

しかし本当は、
この少数派こそが
誠実で、堅実で、真摯な人だ。

つまり、
まともな人だということ。

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職場でも
似たようなことが言える。

声がでかい上司や、
一番権力を持つ人の意見に
同調する人がほとんどだ。

たとえ
自分はそう思えなくても、
権力がある人が言うことに
従っておけば無難だと考え、
異なる意見を言わない人が多い。

そんな中でも、
「これはちょっと
オカシイのではないでしょうか?」
と異議を申し立てれる人もいる。

学校の場合と同様に、
彼らも少数派だ。

筋が通らないことには
「それは違います」
ときちんと発言できるからだ。

並大抵の人は、
そんなことを言えば、
権力者に嫌われてしまうから、
恐ろしくて言えない。

でも、まともな人は、
間違ったことは
間違っていると
きちんと主張できるのだ。

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人間はほとんどの人が、
まともな道を進みたい
と願っている。

でも残念なことに
現実的にはそうできないことも
しばしばある。

権力を握っている人や、
その他大勢と
自分も同じでなければいけない
と思うからだ。

さもないと、
自分は不利益を被るだろうから、
ダメなことでもダメと言えない。

たとえ心底賛同できなくても、
有力者や権威のある人、
その他大勢に合わせて、
自分を殺してしまうのだ。

皆と同じなら、安心だからだ。

おそらく、これは
人間の弱さだろう。

そんな中でも、
周りの人たちや状況に左右されず、
自分が正しいと信じた道に
突き進める人もいる。

そういう人たちは少数派であり、
傍から見れば、
「ぼっち」に見えるだろう。

でも、彼らこそが勇気があり、
前向きで、幸せな「独り」なのだ。

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「ぼっち」と聞けば、
一般的には悪いことだ
と解釈される。

ぼっちの人は周囲から
良い印象を
持たれることは少ない。

しかし、そのこと自体が
オカシナことだ。

なぜなら、ぼっちの人こそ
まともな人が多いから。

その他大勢の方が
あまり感心できない
存在だからだ。

人間はある意味、弱い生き物だ。

権力者に異議があっても、
それを言うことができず、
権力者の言いなりになることも
珍しくない。

大勢がしていることに
自分も従わなければと思い、
良くないことでも、
同調圧力に負けて、
やってしまう事実がある。

世の中の大多数が
このような感じだ。

本当はこういう大勢の方が
情けない人だと言える。

それとは反対に、
誰にも惑わされることなく、
自分の信じる道をしっかりと
進んでいける人は、
勇気があり、まともで素晴らしい人だ。

自分の足で己の人生の目的に
向かうことが
できる人たちだからだ。

彼らは大勢の中では、
孤立した存在に見えても、
実は彼らこそが
本当に称賛されるべき存在だ。

そう考えれば、
ぼっちは恥ずべき人ではなく、
胸を張って堂々と
生きてもよい人だ。

ぼっち万歳!