子供の頃、学校で虐めに遭っていた時、
「なぜ、こんなに辛い目に
遭わなければならないのか?」
不可解な気持ちが強かった。
学校へ行けば、苦しい。
だから、行きたくなかった。
登校拒否した私を
絶対に許せないと思った父は、
毎晩、帰宅すると、怒鳴り散らして、
私に殴る、蹴るの暴力を振るった。
学校へ行っても、辛いことばかり。
自宅に居ても、苦しいことが絶えず、
どこにも行き場がなく、
どうしてよいのか分からず、
途方に暮れた。
「なぜ、今ここで、私は生きているのか?」
「人生の意味って、いったい何なのか?」
この疑問を抱きだしたのが
小学校高学年の時だ。
その頃からずっとずっと
この疑問の答えを見つけることなく、
長い年月が経過した。
大人になって、仕事や勉強などで、
目の前にあることに専念する時には、
そのことで一生懸命で精一杯。
しかし、ちょっとした束の間があれば、
再び、この疑問が頭に浮かんだ。
「いったい、自分は今ここで
何をやっているのだろうか?」
「生きることの目的とは
いったい何なんだろうか?」。
何度考えても、その答えは見つからない。
日々の生活でバタバタするうちに、
人生の目的を知ることなく、
あっという間に中高年になっていた。
7~8年くらい前、
ネット上で斎藤一人先生を知って以来、
私は一人先生のトークを
次から次へと聞くようになった。
この時、一人先生から教わったのは、
「人生は魂の成長のためにある」ということ。
色々辛いことがあっても、
頑張って困難を乗り越えて、
自分の魂を磨きあげ、
魂のレベルを向上させることが
生きることの意味だった、と納得した。
その当時の私には、
なぜか、この一人先生の考え方が
とてもしっくりきた。
「今まで、自分が辛い目の遭ったのも、
魂の成長のためだったんだ。
苦境のお陰で、自分の魂は磨かれて、
それまでよりも、
魂のレベルを少しでも上げられたんだ。
そして、これからも、
少しづつ、自分の魂を磨いていくんだ」
と解釈した。
この頃から、私は自分の人生の課題である
「険悪な親子関係の問題解決」に
真正面から向き合って、
真摯に取り組むようになった。
一年くらい前、
脳科学者・中野信子先生のトークを聞き、
私は大きなショックを受けた。
その内容は、
「人生には目的なんかない」ということ。
この言葉を聞いた時、「えっ?」と耳を疑った。
今まで自分は辛いことに耐えて、
こんなに頑張ってきたのに、
人生の目的などないと言われれば、
なんだか空しい気持ちになった。
しかし、中野先生のトークをよく聞けば、
今までの自分の努力を
否定するものではなかった。
中野先生が意味するところは、
「人生の目的はこういうもの」
と決まったものはなく、
一人一人が自分で決めればよい
ということだった。
このトークを聞いたばかりの時には、
正直、あまりしっくりこなかった。
でも、今では、中野先生のこの考え方が
私にとって一番納得いくものになった。
一人先生が教えてくれた「魂の向上のため」
がしっくりきていた頃には、
努力や、頑張りや、苦しいことに耐えることは、
「美徳」のように思えていた。
誰かに「色々大変だったのね。
辛かったでしょ」と言われれば、涙を流し、
「ああ、自分はよく頑張ったんだ。
でも、やっと認めてもらえた」
と嬉しい気持ちになった。
しかし、今は違う。
「頑張ったんだね」と言われることは、
魅力的に感じなくなった。
「苦しい努力や頑張りが美徳だ」
という気持ちもすっかりなくなり、
「頑張ってね」という言葉を聞くのも、
あまり良い気分がしない。
なぜだか分からないけれど、
7~8年前には自分にとってしっくりきた
「魂の向上のため」というのも
今では私の心に響かない。
今の私が
「人生の目的は何か?」と問われれば、
「単に地球に遊びに来ている。
色々なことが起きるけれど、
地球で様々なことを体験して、
お遊びをしているだけ」と答えるだけ。
遊びに来ているので、
物事をあまり深刻に受け取らなくてもよい。
もっと軽い気持ちで生きてよい、
と感じているのだ。
辛いのに、頑張って耐えて、
シンドイ思いをしなくてもよい。
自分が心地が良いように、
好きなように生きればよい。
「苦労は買ってでもしろ」
というのは、嫌な響きで、
「今の状況が辛いのなら、
逃げてもいいんだ。
自分が幸せな気持ちで
生きれるような場所に移ることが一番」
というのが私の最近の考え方になった。
7~8年前には、
苦労を美徳として、真剣に生きていたが、
今では、もっと気持ちをラクにして、
極力、苦しいことは避けること。
自分が軽やかな気持ちになること
が私の人生の最重要課題になった。
たった7~8年で、
自分の考え方がこんなにも変わるとは、
ちょっと理解しがたい部分もある。
でも、これが「諸行無常」
ということなのかもしれない。
人間の気持ちはそこまで
コロコロと変わるものだ。
今になれば、中野先生の
「人生には意味などない。
自分で勝手に意味をつければよい」
という言葉が、すごくしっくりくる。
昔の私のように
「人生は魂の向上のため」
と考える人がいてもよい。
「苦労を美徳とはせず、
自分がラクになれるよう、
軽やかな気持ちで生きることを
人生の目的にする人がいてもよい。
「単に地球に遊びに来ているだけ」
と地球での様々な体験そのものを
人生の目的としてもよい。
けっきょくは、自分が好きなように
決めればよいだけだ。
自分の人生の目的と、
親の人生の目的と、
夫や子供たちの人生の目的と、
親しい友人の人生の目的とは、
違っても全然構わない。
どれが良いか、悪いかなど
優劣を決めることではなく、
自分が思った通りに考えればよい。
多様性が叫ばれる今、
この点でも多様性を受け入れればよい。
人生には目的などない。
自分の都合のよいように、
自分にとってしっくりくるものを
選んでよいということだ。
私のように、人生の目的に対する考え方が
コロッと変わってしまうこともある。
でも、それはそれで問題ない。
今の自分にしっくりくるものを
大切にすればよいだけだ。