私を虐めた両親に感謝

子育てをしていた頃、私は実の両親に強い嫌悪感を抱く時期があった。私と両親とはかなり仲が悪い。私が外国に移住した理由の一つも険悪な親子関係だった。外で仕事をしていたときには、日々の生活に忙しく、遠く離れた日本の両親のことを考える暇もなかった。しかし、子供たちが小さなとき、専業主婦をしていた頃、時間的に余裕が出たせいか、過去の両親との関係を色々考えるようになった。

私は長い間、両親のことを心の中でずっと責めていた。

子供の頃メンタルを酷く病んだ私を、なぜ、両親はきちんと扱えなかったのだろうか? 学校で虐めに遭っているのに、「学校は義務教育だから」と言って、なぜ、父は力づくで私を強制的に学校へ行かせようとしたのか? 私に対してネガティブ言葉を連発する母は、人の批判ばかりしているけれど、自分のことを立派な母親だと思っているのだろうか?

昔の嫌な思い出が、次から次へと私の頭に蘇った。家事をしていても、自分が今何をしているのか分からず、私の作業はオートパイロットで動いていた。マインドフルネスとは真逆のことをやっていたのだ。頭の中では両親に対するドロドロとした怒りの感情が沸き上がってくる。情けないが、そんな感じで、私は子育てをしていた。

ある日、ひょんなことから、私はオンライン上で斎藤一人先生のトークを聞くことになった。それがきっかけで、両親に対する私の感じ方は不思議なくらい変わったのだ。

それまで私は両親に強い嫌悪感を抱き、私の子供の頃、彼らが私にやったことを責め、絶対に許せないと思っていた。両親を懲らしめてやりたいと思うくらい、私の怒りは激しかった。

斎藤一人先生のことを知って以来、私は一人先生の話に惹きつけられて、次から次へといろいろなトークを聞いた。どの話も私にとっては有益だが、その中で最も私を救ってくれたトークが幾つかある。

題名は覚えていないが、「自分のために他人を許そう」というものがあった。どんなに他人を恨んでも、他人には自分の恨みは届かないということだ。他人を怒り、恨むことに時間を使う人は、そうすることにより、自分の心身の健康を損ない、大切な時間をムダにしているという内容だった。「あなたは大嫌いな人のために、自分の貴重な時間を捧げたいのですか?」という一人先生の言葉で、私はハッとした。

どんなに私が両親に対して怒りを抱いても、それは両親には届かない。それよりも、怒りのために、自分の貴重な時間やエネルギーを無駄遣いしていることに気がついた。そんなのは非常に馬鹿らしい! 今後は自分のために、両親を怒ることは止めようと思えたのだ。

また別のトークの中で、私は大きな気づきを頂いた。精神的に器の小さな人間に、大きなことを期待できないということだ。私の両親は、子供の頃メンタルを酷く病んだ私を適切に扱うだけの能力がなかった。だから、仕方なかったのだ。彼らがわざと私を虐めたわけではない。彼らの器が小さすぎたので、当時の私をきちんと育てることができなかっただけだ。能力のない人に、能力以上のことを期待するのはムリである、と私は悟った。

私の両親は頭の中に「理想の子供像」があり、その理想と現実の私があまりにもかけ離れていたので、私に対して大きく失望した。同様に、私自身も自分の中に「両親にはこうなって欲しい」という理想がある。実際は、私の理想とは全く違う両親だったので、私はかなりがっかりしていた。がっかりするだけでなく、怒りの感情まで湧いてきた。

一人先生の「人間は皆、不完璧なんだ。偉そうにしている親だって、所詮、不完璧な人間。そんな不完璧な人間たちが、一緒に仲良く協力しながら生きてゆくのが世の中だ」という言葉を聞いたとき、私は感激して涙した。

それ以来、私の両親に対するドロドロとした怒りの感情は、すっかりなくなった。「私も不完璧な人間だけど、両親も私同様、不完璧な人間なんだ。だから、自分のことも、両親のことも許してあげよう」という気持ちになれた。

そういう気持ちになれた後でも、私は両親のことが好きではない。今でも両親を尊敬する気持ちはさらさらない。私は成人してからも、人生が生き辛いと感じている。私が子供のときに両親が私にしてきたことが原因で、私は生きづらい人生を送っていると信じている。両親が私を育てた方法が、私に大きなダメージを与えたと思っている。

しかし、大切なのは、両親は私が憎くて、私を苦しめたくて、私にそのような扱いをしたわけではないこと。単に彼らが精神的に未熟で、心の器が小さかったため、メンタルを酷く病んだ私を適切に扱うことができなかっただけ。

私は更に考える。「私の両親が未熟なのは、彼らのせいなのだろうか? 」と。

私は両親の親たちのことをほとんど知らない。これは私の勝手な想像だが、両親が精神的に未熟なのは、彼らも自分たちの両親から、子供時代に十分な愛情を受け取れなかったからではないか?と考える。

未熟な親が子供を育てるとき、子供に無条件の愛情を与えられず、子供を精神的に満たしてあげることは難しい。精神的に満たされなかった子供も、やがては大人になる。身体は大人でも、精神的にはまだ子供同様である。精神的に幼い大人が、子供を産んで親となり、未熟な器で子供を育ててゆく。そのため、子供は精神的に満たされることがない。なぜなら、親の心の器が小さくて未熟だから。このように親から子へ「未熟な心の器」が代々受け継がれてしまうのではないか?と考えるようになった。

私の親が立派な親でなかったことは、彼らのせいではない。両親は未熟ながらも、彼らの能力の限り、一生懸命私のことを育ててくれた。

そう思えたとき、私は両親に対して「感謝の気持ち」が湧いてきた。親自身が未熟で能力がないのに、扱いの難しい私を一生懸命育ててくれたことは、非常に有難いと思えたのだ。

私は今でも、実の両親のことが好きではない。彼らのしたことが原因で、私は大人になってからも苦しんでいる一面がある。でも、両親は彼らの能力の限り、一生懸命私のことを育ててくれた。そういう点で、私は両親にお礼を言いたい。

「お父さん、お母さん、本当に有難う!」と。