私の母は完璧主義。
そんな親に育てられた私も
完璧主義的に生きた時期が長かった。
完璧主義は自分が完璧ではならない
と思うと同時に、他人に対しても
完璧を求めてしまう。
だから、人間関係がオカシクなる。
完璧主義の人は、すべてのことにおいて、
完璧に立派にできるよう目指している。
「完璧できちんとしているべき」
と「べき思考」に縛られていて、
そこから少しでも外れれば、
「失格者」だと考えがちだ。
「こうあるべき」、「こうしなければいけない」
とカチカチに凝り固まったルールに
従って生きているので、
そのルールを守れない人たちに
敵対心をも抱いてしまう。
完璧主義の人は
ゼロ・百思考に陥りやすい。
百点満点なら「合格」だけど、
80点や95点では「不合格」だと思う。
100点満点だけが良くて、
それ以外の途中の点数ならば、
「0点」と同じようだと感じる。
100点満点を目指して
一生懸命頑張っている完璧主義者は
もし、ちょっとだけ間違えをして
99点だったすると、
途端にどん底に落ちた気分になる。
たった1点だけなのに、
100点満点でないと気が済まないのだ。
1点の減点を許すことができないのだ。
冷静に考えれば
60点だったものが、62点になれば
2点も向上したのだから、
「スゴイ!」と喜んでもよいのに、
完璧主義者にはそれはできない。
完璧主義者は小さな改善や向上に
目を向けることができず、
常に「ゼロか百」、「合格か不合格」
「白か黒」のどちらかを選びたがる。
私の母は「理想の子供像」を
頭の中に描いていた。
家事一般を上手にこなせて、
勉強もまあまあできて、
身だしなみもきちんとしていて、
上品で明るく振舞うことができて、
頼まれなくても、気をきかせて
他人のために何かを率先して
やってあげられる優しい子供。
母親の手伝いもよくして、
母の考えていることを察して、
母の期待通りに動いてくれる子供。
自分の子供がそんな人になることを
心の中で望んでいたし、
期待もしていた。
私自身も子供の立場で
自分の中に「理想の親像」があった。
子供が何をしても、どんな状態でも、
無条件の愛を子供に与えられる親。
子供が苦しい時、ツライ時には
「大丈夫だよ。安心して」と
優しく包み込んでくれて、
常に子供を応援してくれる親。
そんな親を頭の中で想像していた。
でも、実際には、どうであったか?
子供である私は、母の理想からは
大きくかけ離れていた。
そして、私の両親も、
私が思い描く理想の親像とは
全く違う存在だった。
「実際の姿」と「理想像」とのギャップが
あまりにも大きすぎて、
お互いに相手に失望して、
相手を責める姿勢でいた。
これが、私達親子の険悪な人間関係の
大きな原因の一つだと
私は考えている。
完璧主義者は、色々なことをきちんとこなして、
パーフェクトにやり遂げようとするので、
志が高くて、立派に見えるけれど、
実は、様々な問題の種となってしまう。
完璧主義的考え方は
メンタルを病む原因にもなるし、
人間関係を悪くすることにも繋がる。
なぜ、そうなのか?
その理由は、「人間は完璧ではないから。
そもそも、人間は不完璧な生き物だから」だ。
傍から見て、とても立派に見える人も、
社会的に大きな成功を収めている人も、
どんな人間でも、人間である以上、不完璧なのだ。
不完璧な人間が、
完璧を目指そうとして頑張る。
でも、その結果、完璧にできなかったから
嘆くことになる。そこが問題なのだ。
今よりも、もっと良くなろうとして、
一生懸命努力することは良くても、
「完璧に行かなかったから」と言って、
がっかりして、嘆くことが間違いなのだ。
なぜなら、人間はどんなに頑張っても
完璧にはなれない存在だからだ。
完璧にはなれない人間が、
「完璧にできないといけない!」
と思うところに不幸が生まれる。
完璧にはできなくても、
少しでも向上したことを
喜ぶことができれば、
何も問題は起きないはずだ。
私が完璧主義的考え方を捨てて、
「不完璧でもいいんだ」と
思えるようになったのは、
斎藤一人先生のトークによるところが大きい。
「人間は不完璧な存在なの。
その人間が少しでも良くなろうと頑張って、
少しでも良くなれば、それで十分。
不完璧な人間が
皆で力を合わせて生きてゆこう
というのがこの世の中なんだよ」
上記の言葉は、
一人先生の言葉そのものではなくても、
こんな話の内容だった。
そして、私はこのことをしっかり理解できた。
それ以来、私の親に対する姿勢も
大分変ってきた。
以前は理想の親像があった私。
でも、親も自分と同様に不完璧な人間だ。
そんな不完璧の人間に、
私が頭で思い描いていたような
理想的なことを求めること自体、
間違いだったと分かったのだ。
親に対する過度な期待が
自分の中から消えた時、
親がどんなことを言おうと、
自分の思い通りになってくれなくても、
私はあまり気にならなくなった。
「まあ、人間だから、そんなものでしょ」
と自分に対しても、親に対しても、
柔軟な姿勢がとれるようになった。
そのお陰で、私は気持ち的にも大分ラクになり、
以前よりも、幸せな気持ちでいる時間が
ずっと長くなったと感じている。
完璧主義で自分と親を責めて苦しむより、
「人は不完璧な存在なんだから」
と心を緩めて生きた方が
幸せになれると確信した。