子供の頃から、大人になっても、何十年もの長い間、
私は毒親との人間関係でずっと悩み苦しんできた。
親の顔や親の声にうんざりして、
私は遠い外国に移住する決意をし、
親とはなるべく接点を持たないよう努めてきた。
そんな私も数年前、自分の心の内で
やっと親との和解ができ、
険悪な人間関係を解決する道のりで
大きなマイルストーンに到達できたと感じている。
今、私が両親に対して感じるのは、
「自分は親から、かなり悪影響を受けた。
でも、親は悪気があって
私を苦しめたわけではない。
親にも親の事情があったから、仕方なかった。
親の子育ては粗末なものではあったが、
その当時、親は親なりに一生懸命頑張った。
親も自分に余裕がなく、未熟であり、
親自身が精神的に幼稚な子供だった。
それでも私を精一杯育ててくれた。
だから、しょうがない。諦めるしかない」ということだ。
親が自分たちの能力の範囲内で、
一生懸命子育てしてくれたのは確か。
そういう意味では、親に感謝したほうがよい。
ただ、私の正直な気持ちを言えば、
自然に感謝の気持ちが湧き出てはこない。
「親も~だったから、仕方なかった。
それでも頑張ってやってくれたのだから」
と論理づけして、
「感謝したほうがいい」と頭で考えるだけ。
感情的には親に対して、
未だネガティブなものが残っている。
今でも親に対する嫌悪感はあるし、
親のことは好きになれない。
親を尊敬する気持ちもなければ、
侮蔑する姿勢も持たない。
ただ、「仕方なかった。しょうがなかった」
とよい意味で諦めがついた。
それと同時に、私は親のような生き方は
絶対にしたくない気持ちが強い。
今回は、具体的に
親のどんなところが嫌なのか、
お話してみたい。
まず最初に、
「他人を評価ばかりしていること」が嫌だ。
この傾向は父親に強く見られる。
テレビを見ていて、
「この歌手はホント下手くそだな」
と有名人を馬鹿にしたり、
「この政治家は、本当にけしからん!
そんなことしかできないのか!」
と文句を言い、非難したり。
そんな父の姿を見れば、
私はイライラした気分になる。
「じゃあ、自分はその歌手よりも
もっと上手に歌えるのか?」、
「父が政治家になったら、
もっと立派なことができるのか?」
私は心の中でそう叫んでいる。
父は他人のことを悪く言い、
他人を引きずり下ろすことで、
自分が相対的に偉くなった気分になり、
優越感に浸っている。
実際に自分が何か努力をして、
自分自身を向上させるのではなく、
悪口を言うことで、他人を落として、
自分が上になった妄想をしているだけだ。
そんな父を見れば、哀れに思い、
「私は絶対にそのようにはなりたくない」と思う。
次の嫌な点は、両親の「体裁第一主義」。
自分が他人から「立派な人だ」
「素晴らしい人だ」「偉い人だ」
と見て貰えることが、
両親にとっては最重要課題であること。
「そんなことをしたら、
人様になんと思われるか分からないでしょ!」
「世間様に恥ずかしくないよう、
きちんとしなさい!」
子供の頃から、成人した後でも、
両親からこの言葉を
幾度聞かされたか分からない。
私の心の中では、それに反論する声が、
強くなってゆくばかりだ。
「そんなに人の目ばかりを気にして、
どうするの?
自分はこれをやりたいのに、
人から非難されるから、我慢して、
やらないほうがいいのか?
私がやろうとしていることは、
他人に迷惑がかかることではない。
そんなに悪いことだろうか?」
両親に対する不満はどんどん膨らんでいった。
家の中では眉間にしわを寄せて、
文句ばかりを言い、
嫌なオーラをまき散らす母。
しかし、外に出れば、態度がガラッと変わる。
美しく振る舞い、まるで別人のようだ。
内と外とのギャップがあまりにも激しくて、
母の姿を見ていると、私はその違いに呆れるほど。
服装にしても、所持品にしても、ブランド志向で、
高価なものを身につけたがる母。
子供の学校や就職先も、
立派なところでないと恥ずかしいと思う両親。
娘の髪形や化粧、服装まで逐一チェックして、
自分のスタンダードを満たさなければ、
文句をたらたら言ってきた母。
そんな両親の姿を見れば、
私は強く反論したくなる。
「そんなに体裁ばかり気にしても、
周囲の人は、自分が思うほどは
自分のことは見てない。
体裁ばかりに時間やエネルギーを使うより、
自分の内面を磨いていったほうがずっとマシだ!」。
両親を見て、嫌だと感じる次のことは、
「メディアの情報を完全に信用しきって、
センセーショナルなニュースに
踊らされてしまっていること」。
父は昔、よく言っていた。
「そんなこと言っても、
新聞にちゃんと書いてあるぞ!」
「お前の言うことは間違いだ。
テレビニュースでそう言っているから、
そうなんだ!」。
情報操作があることも疑わず、
権力者の仕掛けた歪んだ情報を
そのまま鵜呑みにする父。
そのこと自体は
私にとってはさほど問題ではない。
信じたいことを信じる権利は誰にでもある。
しかし、迷惑なことは、
「これはちょっと違うと思うよ」と言う私に
激しく攻撃してくることだ。
自分が信じることと、
子供の私が信じることが違えば、
父は感情的になり、怒り狂い、
暴力を振るうこともあった。
似たようなことだが、
「誰かが仕掛けた流行に
乗らないといけない」と両親は思い込んでいる。
例えば、子供の名前について。
昭和の時代には、女の子の名前は「○子」
というように「子」で終わる名前が多かった。
しかし、平成以降は、
「子」で終わる名前は少なくなっている。
そういうトレンドがあるのに、
それに従わなかった私に対して、
親は呆れた態度を見せた。
この服が流行すれば、
自分もその服を着なければいけない。
この靴が大流行すれば、
自分も早速、その靴に飛びつく。
私の母は常にそういう感じだった。
既に流行が終わった昔のものを身に着ければ、
「そんなの時代遅れで、みっともない!」
と非難してくるほどだ。
もちろん、その流行が
自分にとって良ければ、それに従えばよい。
しかし、なんでもかんでも流行だからと言って、
自分がそれほど気に入らなくても、
周囲の人たちと一緒にしないといけない
と思うのは、オカシナことではないか?
時代遅れであっても、
自分が着心地がよくて、満足できるもののほうが
私にはずっとよいと思える。
「周囲で多くの人たちがそうしているから、
自分も同じようにしないといけない」
と私の親は強く思い込んでいる。
それに従わない私に対して、
嫌味を言ったり、馬鹿にした態度を取る親に
私は正直うんざりしている。
体裁の話に戻れば、
自分が苦しくて、シンドイ時でも、
母はその辛さを外の人には隠して、
自分は立派にやっているという姿を
他人に無理に見せようとする。
そんな母は、私にとっては不自然で
見苦しくさえ感じられる。
私の父方の祖母が病気の時、
母は嫁の立場で看病をした。
父は兄弟が多いので、
嫁の立場は母だけでなく、
他にも何人かお手伝いがいた。
その看病が辛くて辛くて大変なのに、
「自分は立派にやっている」
という姿を親戚の人たちに見せたい母。
家族4人の中だけでは、
「嫌だ、嫌だ」としばしば文句を言い、
私たちを不愉快にさせるほど、
怒りの波動を家中にまき散らしている。
しかし、親戚たちに会う時には、
そんなことは絶対に口にはせず、
「立派な嫁」を演じている。
そのギャップがあまりにも大きすぎて、
傍から見ても、変に思えた。
父が少しでも「母が大変なこと」を
他の親戚に言うことがあれば、
母は激怒して、父を責めるばかりだ。
どうして、ここまで立派な嫁を
演じなければならないのだろうか?
私には母が理解できない。
私だったら、母のようにはしない。
自分にとって無理なことや、
どうしてもやりたくないことは、
正直にその旨伝え、無理はしない。
その代わり、自分にできることを
一生懸命やってあげる。
人は皆、それぞれ違うから、
自分にとって難しいことが
他人にとっても難しいとは限らない。
そのことを親戚たちと話し合い、
なるべくお互いが負担にならないような形で、
協力したいと思う。
ただただ「自分は立派な嫁」と親戚に思われたく、
無理に無理を重ね、大きな自己犠牲を払い、
その不満を身近な家族にぶつけて、
当たり散らす母は、惨めな人に思える。
もう一つの両親の嫌な点は
「自分より立場の低い人には、
絶対に謝らない」ということ。
年下や社会的地位の低い人たちに対して、
無礼に振る舞っても問題ないと思っているようだ。
その一方で、社会的、経済的権力者に対しては、
ペコペコと頭を下げ、
その人の言いなりになる傾向がある。
私はこういう親の姿勢が大嫌いだ。
年上だから、年下だからに関係なく、
人は誰でもミスや間違いをするものだ。
自分よりも年下の人に迷惑をかけることも
しばしば起きる。
そんな時には、社会的地位や年齢に関係なく、
「ごめんなさい」と謝るのは、とても重要だ。
それなのに、自分のプライドのために、
悪いことをして迷惑かけたり、
失礼なことをして、相手を不快にさせても、
年下や地位の低い人には謝罪できない。
そのまま何も言わずに
誤魔化して終わりにしてしまう。
こういう親の姿は本当に見苦しい。
相手が自分の子供であっても、
不適切なことをして、
子供を不愉快な気持ちにさせた時には、
親でもプライドを捨てて、
きちんと謝ったほうがよい。
親の威厳を保ちたいがために、
自分が子供に迷惑をかけても、
望ましくないことを言い、
子供を傷つけてしまった時でも、
子供に謝らない親は、どんなものだろうか?
尊敬に値しないと私は思う。
私は他人を蹴落とすことで、
優越感に浸ることはしたくない。
それよりも、自分自身に集中して、
自分を向上させてゆきたい。
私は体裁を気にするよりも、
自分にとってしっくりきて、
心地よいものを大切にして、
自分の内面を充実させてゆきたい。
私は流行には左右されず、
自分が良いと感じる物を常に大切にしたい。
私はメディアの情報をそのまま鵜呑みにせず、
センセーショナルなニュースに
感情的に飲み込まれることは極力避けたい。
私はツライときには、ツラいと正直に言いたい。
自分の本当の姿を隠し、
自分とは全く違う「素晴らしい人」を演じたくない。
自分が悪いことをした時には、
相手が誰であろうと、
私はきちんと「ごめんなさい」と謝りたい。
私と両親とは、考え方や価値観が全く違う。
それはそれで問題ない。
問題なのは、価値観や考え方の押しつけだ。
親の立場だからと言って、
人生経験がより長いからと言って、
自分が考えることや大切に思うことを
子供の私にも期待するのは、不当なことだ。