今日は息子がオークランドに戻る日だ。
息子は、普段は正午過ぎまで大寝坊しているのに、
今朝は午前6時に起床。
身支度を済ませて、
もう既に空港に向けて出発した。
今回、私は空港まで彼を見送りに行かない。
最近、NZ全国で
コロナウィルス・オミクロン株の市中感染が始まり、
人々が行き交う空港は「危険地域」と思われるからだ。
息子には悪いけれど、自宅のドアで別れを告げた。
最初の計画では、息子を飛行機で帰すのではなく、
車でオークランドまで送って行くはずだった。
しかし、最近のコロナ状況も思わしくなく、
極力、危険地域であるオークランドには
立ち入りたくない。
だから、オークランド行を
キャンセルすることにした。
この決断は主に私がしたものだ。
息子はもちろん、私たち両親に
オークランドまで送って貰いたかった。
夫もコロナに対して、
私ほど恐怖感を抱いておらず、
「大丈夫だよ。オークランドまで
車で行くなら、心配ない」と言い張った。
しかし、私がしつこく反対するので、
夫も折れてくれたのだ。
最終的には、息子に一人で飛行機で
オークランドまで帰って貰うことになった。
ただ、息子はそのことを快く思っていない。
今朝も身支度をしながら
文句を幾度か言っていた。
「ああ、今日は倉庫に預けた荷物を
一人で取りに行かねばならない。
一回で運びきれないから
3往復はする必要があるな…
本当に面倒だ。ああ、シンドイ」
と愚痴を漏らしていた。
確かに面倒なのは理解できる。
特に車の運転をしない彼が
タクシーかウーバーサービスを利用して、
倉庫まで行き、そこから荷物を3回に分けて
大学寮まで運ぶことは、
なかなか大変なことだろう。
息子が私たちに
オークランドまで来て欲しいのは、
この荷物運びを手伝って貰いたかったからだ。
彼の立場からすれば、
やはり親に頼りたい気持ちがある。
それは正直な気持ちで、当然だろう。
ただ私の視点では、
コロナの蔓延状況が一番酷いオークランドに
私たち夫婦が行くことは、
あまり望ましくないと考えられた。
息子のように若くて健康な人ならば、
万が一、コロナに罹っても、大丈夫だろう。
しかし、私と夫のように、ある程度年齢を重ね、
健康面で問題があり日常的に服薬している人間が
危険地域に行くことは極力避けたいと思った。
たかが荷物の運搬作業を手伝うために、
それだけで自分たちの大切な身を
コロナウイルスに晒したくない
というのが私の正直な気持ちだ。
オークランドに行ったために
コロナに罹り、酷く病んでしまったり、
後遺症が出て、後の人生に悪影響があったら、
取り返しのつかないことになる。
そんなことは、絶対に避けたいと思った。
しかし、息子には私のこの気持ちは
全く理解されないようだ。
やっぱり、親には甘えたい気持ちがある。
もう若くはない自分の両親が
コロナに罹るかもという心配よりも、
親に手伝って欲しい気持ちが強く、
私たちがオークランド行をキャンセルしたことに、
不満を抱いている様子だ。
息子は自分の正直な気持ちを隠すことなく、
今朝も文句を幾度か口に出していた。
息子が自分の意向をはっきり言うのに対して、
娘は自分のことよりも、
私たちのことを心配してくれる傾向にある。
何につけても、「大丈夫? 迷惑かからない?
本当なの?」というように
大したことのない小さなことでも、
いちいち確認して、相手を気遣う姿勢がある。
両極端な2人の子供たちを観察していると、
私は不思議な気持ちになる。
同じ親から生まれて、
全く同じ家庭環境で育ったのに、
こんなにも性格が違うのか、
と興味深く感じるのだ。
表面的に考えれば、
他人に気遣いすることがなく、
自分の思った通りにしたい息子は
未熟で自分勝手な人間だ。
他人のことも思いやり、
常に「これをしたら、あなたは大丈夫?」
と親の私たちにも気遣いしてくれる娘は
心温かく、優しい人間だに思われる。
しかし、最近、
こう結論付けるのは、
かなり危ないことだと考えるようになった。
その理由は、「親子の役割逆転問題」について
ユーチューブで様々な人たちのトークを
聞くようになったからだ。
「親子の役割逆転問題」とはいったい何か?
それは、親と子供の役割が逆転して、
子供が我慢して親の機嫌を取り、
親の面倒をみるということ。
その背景には、親が未熟であるために、
子供は親に甘えることができず、
自分は我慢して、親に遠慮している。
それだけでなく、親が喜んでくれるように、
親の気に入るような行動を取るようになることだ。
そうなれば、一見、子供は優秀な人間で、
親からしても都合の良い存在だ。
しかし、問題なのは、子供はそうすることで
幸せな人生を歩めなくなる。
親に気に入られるために、子供はかなり無理している。
本当なら、自分の思う通りに、
親にやって貰い、親に思い存分甘えたい気持ちがある。
でも、そういう自分の正直な気持ちも押し殺して、
無理に親を喜ばせることをしてしまうのだ。
こういう状態が長く続けば、
子供は「自分が本当はどうしたいのか?」
が分からなくなり、
自分の人生を生きられなくなる。
大人になり、独立してからも、
誰かの面倒をみる立場になり、
困った人と人間関係を結ぶようになる。
相手を助けることで、自分は満足感を得て、
それだけが生き甲斐になってしまう。
しかし、自分が誰かの役に立てている
という感覚を失えば、
次第に自分の価値が分からなくなり、
生きる気力も失ってしまう。
人間誰でも、本来は、自分はこうしたい。
こう生きたいというものがあるはずだ。
でも、親子の役割逆転が起きれば、
子供の立場の人間は、自分の本当の気持ちすら
分からなくなってしまい、
他人に尽くすだけの人生を歩むことになる。
常に自分を損する立場に追い込んで、
メンタル的にも問題を抱え、病みやすく、
不幸せになることも多い。
親子の役割逆転について、
話を聞けば聞くほど、
「もしかしたら、娘はこれなのか?」
と心配する気持ちが出てきた。
私たちのことを気遣ってくれ、
小さなことでも常に「これしても、
あなたたちは大丈夫?」と聞いてくれるのは、
私にとっては非常に助かることだ。
しかし、娘は私に遠慮しすぎて、
自分が心底望むことは抑えつけて、
我慢しているのかもしれない。
そんなことがあったら、
彼女の親切を単に「性格の良い子」
で片づけられなくなる。
性格の良い優しい娘は
私たちに甘えることができず、
常に気遣ってくれている。
そのことに気が付かず、
「なんて成熟した立派な娘なんだ」
と思うことは、あまりにも愚かだ。
それに対して、
息子が自分の気持ちを遠慮せずに言い、
「オークランドまで送ってよ」
とずっと言い続けたことは、
一見、自分勝手でワガママに見える。
しかし、考えようによっては、
「私たちに遠慮はなく、甘えることができている」
と解釈することもできる。
親子の役割逆転のことを考えれば、
息子の在り方のほうが子供らしく、健全だろう。
娘は現在22歳。息子も今月末19歳になる。
年齢的には、もう成人でも、
まだまだ子供と言ってもよい年齢だ。
やはり、親に甘えたい気持ちはあるだろう。
私が子供たちとの関係で望むことは、
親子の役割逆転が起きていないこと。
娘が沢山我慢していることがないことだ。
しかし、実際は分からない。
自分もかなり未熟な親だと自覚するので、
親子の役割逆転が起きているのかもしれない…