日・NZ文化の違い ― 論破するのか? それとも、対話するのか?

日本に20年以上、そして、
ニュージーランドに30年以上
住んだ私は、肌感覚で
日本とニュージーランドは
かなり違うと感じることが多い。

今回はそのうちの一つを
お話したい。

それは、
誰かと意見が違った場合、
日本では「議論」になりやすく、
NZでは「論議」になることが多い、
ということだ。

どんなことだか
詳しく説明しよう。

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まず最初に
「議論」と「論議」の違いを
はっきりさせたい。

両方とも、
同じ2文字の漢字から成る言葉。

「議」と「論」の順序を
入れ替えただけだ。

似たような意味だろう
と思われがちだが、
実はそうでもない。

「議論」は
どちらの意見が正しくて、
どちらが間違っているか? 
を決めようとするもの。

異なる意見を持つ人を
「論破」するという
好戦的なニュアンスがある。

その一方で、「論議」は、
お互いの意見を交換して、
「対話する」というアプローチだ。

違う考えをする相手を
否定することなく、
比較的平和な話し合い
という意味合いがある。

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これは私の体験談だ。

日本の実家で暮らしていた頃、
私は自分の意見を
はっきり言えないことが多かった。

父と考え方や価値観が
かなり違ったからだ。

父は強い信念の持ち主で、
自分の考えが常に正しい
と確信しており、
家族にも同じ考えを持つよう
押し付けるタイプだった。

もし、父と異なる意見を言えば、
父の説教が始まり、最終的には
「お前は間違っている!」
と否定される結末になる。

時には父は
「そんな考えをするお前が
許せない!」という態度で、
暴力を振るうことさえあった。

私は父が怖くて、
自分の意見を言えないことも
しばしばあった。

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その一方で、私は、
NZ人の旦那とは
全く違う経験をしている。

私と彼は
子供の教育方針について、
同じ意見を持たないことも
しばしばあった。

たとえば、私たちの娘のこと。

彼女はぎりぎりまで
やるべきことをしない子だった。

学校の宿題があっても、
それをやらずに
ゲームに夢中になっている。

提出日前日になると
ようやく動き出し、
バタバタと急いでやる様子だ。

そんな娘の姿を見て、
私はイライラすることも
多かった。

そして、娘に
「きちんと計画を立てて、
宿題をもっと早くに
済ませなさい!」
と命令してしまったのだ。

それを見た旦那は
「いつ宿題をやろうと、
子供の勝手だよ」と
のんびり構えている。

親の立場で良かれと思うことを
子供に押し付けること自体、
望ましくない、と旦那は考えるのだ。

それとは反対に、私は、
子供に対して、親はある程度
指導するべきだと思っていた。

夫婦で意見が違えば、
喧嘩になるのでは? 
と思われるが、
そんなことは一度も起きなかった。

なぜなら、
旦那は自分の考えを
大切にすると同時に、
私の異なる意見も
尊重してくれたからだ。

旦那が娘に言ったのは、
「僕はね、子供が自分で決断するほうが
いいと思っているんだよ。
でも、お母さんはそうは思わない。
親が子供に良いと思うことを
指示するべきだと考えている」と。

旦那のこの言葉を聞いた時、
私は正直、驚いた。

もし、相手が私の父なら、
こんなに穏やかな雰囲気では
終わらなかっただろう。

言い争いの喧嘩に
なっていたに違いない。

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父や旦那だけではなく、
私は似たようなことを
他の場面で、他の人たちとも
経験している。

そこで感じたこと。
日本では異なる意見に対して、
否定的態度を厳しく取ることも
しばしば。

相手を論破して、自分が正しい
と主張したがる人が
大勢いること。

それに対して、NZでは、
違う意見に対しても
寛容な姿勢を見せる人が多い。

誰の意見が正しくて、
誰の意見が間違っている
というアプローチは取らない。

それよりも、違った考え方
として、受け入れる姿勢がある。

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いったい、なぜ、
そうなのか? を考えた。

そして、自分なりに
その答えを見つけたと思う。

それは、教育の違いだ。

日本で私が受けた教育は、
教える側の教師が偉くて、
教わる側の学生は言われたことを
そのままインプットするだけ。

日本の小中高の学校では、
教師が一方的に子供に
知識を詰め込むような教育が
なされていた。

授業も先生が一方的に
「正しいこと」を教えて、それでお終い。

他方、NZの学校では、
教師が教えると同時に、
学生に沢山アウトプットさせる
傾向がある。

一つの課題に対して、
クラス全員がプレゼンしたり、
意見交換する機会が
頻繁に設けられていた。

教師は生徒たちに
自分とは異なる意見を
尊重するよう指導している。

「Aちゃんの言ったことは正しくて、
Bちゃんは間違っている」なんてことは
口が裂けても言わない。

それよりも、Aちゃんの意見と
Bちゃんの意見を
対等に扱う姿勢だ。

人は皆、違う考え方、価値観があり、
多種多様な人たちが
協力しながら仲良く生きるのが社会だ、
と教えているのだ。

そんな環境では
自分の意見を言うのも怖くない。

他の人と異なることを言っても、
非難もされないし、
叱られもしないからだ。

その代わりに、
「そういう考え方もあるね」
と受け止めて貰える。

子供の頃から受けてきた教育の違いにより、
大人になった時に、
論破したがる人になるのか? 
対話したがる人になるのか?
違いが出るのでは?
と私には感じられた。

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ということで、今回は、
誰かと意見が違った場合、
日本では「議論」になりやすく、
NZでは「論議」になることが多い
という話をしてみた。

個人的には、私は
多種多様を許可する
NZのアプローチのほうが
望ましいと思っている。

正しい、間違っている
と議論するよりも、
色々な考え方がある
と受け入れたほうが
皆が平和に暮らせるからだ。