「正解は一つ」の思い込みを手放そう!

私は日本で
生まれ育ちましたが、
二十代半ばに
ニュージーランドへ移住し、
今ではこの国に
33年間住んでいます。

日本を外から見つめると、
さまざまなことを感じます。

その一つに、
「何が正解なのか?」と
他人に答えを求める傾向が、
日本では強いように
感じられます。

今回は、そのことについて
考えてみたいと思います。

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正解は一つしかないの?

ネット上の
お悩み相談を見ていると、
多くの日本人が
「絶対的な正解が存在し、
それは一つだけ」と
思い込んでいるように感じます。

特にお悩み相談で
質問する人たちは、
この考え方にとらわれがちです。

「どうしたらいいですか?」とか、
「正しい答えを教えてください」
という質問がその典型です。

この状況を見ていると、
日本にはこのような傾向が
強いように思います。

似たようなことを
ある大学教授も
指摘されています。

この教授は
日本と欧米の大学で
教鞭をとっていますが、
欧米の学生は
自分なりの意見を持っていて
「私はこう考えますが、
教授はどうお考えですか?」
と質問してくることが多いそうです。

一方、日本の学生は
「どう考えたらいいでしょうか?」と、
正しい考え方を求める質問が
多いとのことです。

つまり、教授から
「正解」を教えてもらおうとする
姿勢が見られるのです。

この違いは、日本の学生の
「自分で考えるよりも、
誰かから絶対的な正解を
教えてもらいたい」という
依存的な姿勢に
起因しているのではないか
と考えられます。

そして、この依存的な姿勢は
「正解は一つしかない」という
固定観念によって
強化されています。

おそらく、
日本の教育が幼少期から
「正解は一つ」という前提で
行われていることが
影響しているのでしょう。

そのため、答えがはっきり
わからないときには、
他人から
正しい答えを求めるようになり、
自分自身で答えを
探し求めることを
しないのかもしれません。

いろいろな答えが存在する可能性を
視野に入れていないので、
自分なりの答えを模索することも
ないのでしょう。

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日本の教育は考える力を育てない

「正解は一つ」という前提で
進められる日本の教育では、
「3+4=□」のように、
□の部分を埋める問題が一般的です。

この問題の答えは
当然一つしかありません。

一方、ニュージーランドでは、
このような問題に加えて、
複数の正解が考えられる問題が
多く出題されます。

たとえば、「□+△=7」のような問題で、
□と△に入る数を求めるものです。

この場合、
正解は無限に存在します。

1と6でも、2と5でも、
0.5と6.5でも正解です。

このような問題では、
子どもたちは自分で考え、
答えを導き出します。

自分の出した答えも
他人の答えも、
それぞれ正しければ、
必ずしも同じでなくて良いことを
学びます。

こうした教育を受けることで、
子どもたちは自分なりの答えを
見つける楽しさを知り、
創造的な思考が
育ちやすくなります。

それに対して、
日本では一つの正しい答えを
求めることが重視されるため、
様々な答えが存在することに
気づきにくくなります。

また、日本の教育では
「暗記中心の学習」が
重視されています。

特に受験を意識した教育では、
膨大な情報を
暗記することが課せられます。

歴史の年号や化学の公式、
英単語の意味などを
正確に覚えることが
成績の評価に直結し、
暗記した内容をそのまま再現することが
学習の目的とされています。

しかし、決められた答えを
いかに正確に再現するかに
重点を置けば、
深い理解や批判的思考、
問題解決能力は養われません。

その結果、個々の思考や意見を
表現する力も育たず、
与えられた情報に依存する姿勢が
強まるのです。

ニュージーランドでは
ディスカッションや
エッセイを書く課題が多く、
学生が自分の意見や考えを
表現する機会が、日本に比べて
はるかに多いと感じます。

そのおかげで、
学生たちは多様な視点を持ち、
複数の解決策や考え方を
模索する力を育むことが
できるのではないかと思います。

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「○×式教育」は歴史的要因によるもの

さらに言えば、
日本のこのような教育傾向には、
歴史的な背景も
深く関わっているのでしょう。

かつて読んだ本の中で
特に印象に残ったのは、
戦後のGHQによる教育政策
についての記述です。

終戦後、GHQは
日本に「○×式教育」を
導入しました。

これは、「正しいか間違いか」
「良いか悪いか」といった
二元論的な思考を
植え付ける教育法です。

この方式が日本の教育に
取り入れられた背景には、
日本人を精神的に従順で
コントロールしやすい国民にする
狙いがあったとされています。

この「○×式教育」によって、
正解を求める思考が強化され、
自分で考える力が
抑え込まれる結果を
招いたのでしょう。

戦後、日本はこの「○×式思考」を
すっかり定着させ、多くの日本人が
クリエイティブな問題解決能力や
創造力を失ってしまった
という現実があります。

おそらく、現代の日本社会に
根強く残る
「正しい答えを教えてほしい」
という姿勢には、この歴史的な背景が
影響しているのではないか
と思われます。

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正解を他者に依存することの弊害

指導者から「正しい答え」
を教えてもらえれば、
自分で考える手間が省け、
葛藤する必要もなくなります。

ある意味、
楽に感じるかもしれませんが、
他者に正解を依存することで、
望ましくない弊害が
生じる可能性もあります。

それは、依存的な思考が強まり、
カリスマ的なリーダーや宗教家、
成功者の言葉に
盲目的に従う傾向が強まることです。

特に、「ズバリと答えを教えてくれる」人物
に対して強い信頼を寄せ、
自分で考えることを
放棄してしまうのです。

その結果、情報やアドバイスを
鵜呑みにして、怪しげなカルト宗教や
ビジネスに盲信し、誤った方向へ
進んでしまう危険性もあります。

偉大な他者に
正解を求め続ける姿勢では、
自ら考える力を失い、
自分自身で探求する能力も
衰えてしまいます。

これでは、
主体的に生きることもできず、
問題が発生した際に、
自分で解決する力を持ちません。

私たちが人生で
直面する問題の中には、
正解が存在しないものも
数多くあるでしょう。

仕事や人間関係で
何かを解決しなければならない場面では、
たとえ正解がわからなくても、
自分の頭で考え、試行錯誤をして
自分なりの答えを
導き出すことが望ましいです。

しかし、日頃から
自分で考える習慣が
身についていなければ、
他者に答えを求める
受け身の姿勢になりがちです。

このような状態では、
自分で自分の人生を
切り開くことは困難でしょう。

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海外生活経験が私にとって良かった理由

海外で生活する機会を
得られたことは、私にとって
大きな財産となりました。

その理由は、
異なる価値観や考え方に
触れる機会が多かったからです。

文化が違えば、
同じことをするにも
全く異なる方法が
あることを学びました。

この経験を通じて、
物事には一つのやり方だけでなく、
さまざまなアプローチが存在すること
に気づくことができました。

もし日本だけで生活していたら、
社会通念や常識を疑うことなく、
それを当然のものとして
受け入れていたでしょう。

「これはこうするべきだ」
と一度教えられれば、
他の方法を模索することなく、
そのまま従っていたでしょう。

しかし、
異なる文化圏での生活を通じて、
自分が当然だと思っていたことが、
実はそうではないと気づけました。

視野が広がり、
世の中の常識や社会通念を
盲信することの危険性を
考えるようになりました。

今では、誰かから
「正解」を教えてもらうのではなく、
自分自身で考え、自分なりの答えを
導き出すことの大切さを
痛感しています。

自分の頭で考え、感じ、
発見したことを
自分の人生にどう活かすか、
それこそが本当に重要なことだ
と思うようになりました。

この姿勢は、
自分らしく主体的に生きるための
基盤になるでしょう。

不当な思い込みを手放して
自由に考えることが、
創造的で充実した生き方に
つながるのだと確信しています。

そのため、日本の若者にも
もっと積極的に海外に出て、
異文化に触れる経験をしてほしい
と心から願っています。

今回の話は、
日本の教育や社会について
やや批判的な
意見かもしれません。

日本も他国と同様に
素晴らしい面が数多くある一方で、
問題点も無視できません。

今回取り上げたのは
後者に焦点を当てた内容ですが、
「正解は一つではない」
ということに日本人が気づき、
「絶対的な正解は存在しない」
という思い込みから解放されれば、
もっと自由で創造的な人生が
送れるようになると信じています。

そんな人々が増えれば、
日本はさらに豊かで魅力的な国に
なることでしょう。

私は、そんな未来を
心から願っています。