私は昭和中期の生まれで、
成人するまで、ずっと東京で暮らした。
二十代半ば、ニュージーランドに渡って以来、
この国で30年間生活している。
日本の生活や文化は、
ニュージーランドとは大分違う
と感じている。
その違いの一つが「教育」だ。
私が日本の学校や職場で受けた教育は、
「空気を読んで、周りに合わせること」だった。
日本は協調性を重んじる文化があり、
独自性や人と違うことは
高く評価されない傾向にある。
皆と一緒で同じようにやらなければ、
村八分にされて、虐げられることもある。
日本は、空気を読まない人は、
叩かれやすい社会だ。
それに対して、ニュージーランドでは、
けっこう皆、自由に自分を表現する。
人と違うことは、いけないことではなく、
むしろ、素晴らしいと思われている。
「皆で一緒に同じようにやりましょう」
という場面もあるが、それが困難な時には、
「こういう事情があり、できません」
とはっきり言うことが許されている。
人は様々な事情や理由により、
一つの型に当てはまらないことを
皆が承知しているようだ。
日本とニュージーランドの
2つの文化を経験して、私が考えるのは、
「空気を読まないほうが、
実は、自分のためにも、社会のためにも
役立つことではないか」ということ。
なぜ、そう思うのかは次の理由がある。
1)自分がラク。
2)適材適所に配置可能になる。
3)創造性が高くなる。
どういうことなのか、
詳しくお話してみたい。
1)自分がラク。
空気を読んで周囲に合わせることは、
ある意味、自分を殺すことと同じだ。
自分はそうは思わないのに、
ムリに「そう思います」と言ったり、
自分はこれをやりたくないのに、
周囲の人が皆やるからと言って、
気の進まないことを
半強制的にやらせられる。
これは、かなりツライことだ。
ありのままの自分でいることが
許されないので、
不満やフラストレーションも溜まり、
それが原因で、メンタルを病んだり、
身体を壊してしまう人もいる。
自分の意見をきちんと言い、
自分が心底望むことをやり、
素の自分を出すことができれば、
とてもラクだし、活き活きと生活できる。
多様性が受け入れられるのなら、
皆が「素の自分を出しても大丈夫だ」
と安心して、自己表現できる。
もちろん、他人を傷つけたり、
人の迷惑になることをするのはNGだ。
しかし、自己表現を自由にしても、
お互い共存できる社会に一度でも住んでみれば、
人に合わせるために、
ムリに自分を殺さなくても大丈夫だ
と確信できる。
2)適材適所に配置可能になる。
日本の会社員で
「仕事がつまらなくてシンドイ」
と感じる人が多い理由は、
自分の合った部署に配属されず、
得意分野を活かせていないからでは?
と私は感じている。
なぜ、そうなのかは、
入社した時から、同じ社内教育を受け、
すべての職種を満遍なくこなせるよう
教育されるからではないだろうか?
ある特定の仕事が
自分に合わない場合にも、
ムリして練習させられて、
不得意を克服するよう指導される。
それよりも、「不得意な仕事は
やらなくてもいいから、
得意なもので活躍してくれ」
という人事配置がされれば、
皆がそれぞれ得意分野の部署に行き、
自分の能力を最大限に発揮できる。
会社全体からしても、
効率よく仕事ができ、業績も上がるはずだ。
つまり、「適材適所」がベストということ。
しかし、皆と同じようにやるために、
自分を殺して周りに合わせていれば、
自分は何が得意なのか、不得意なのか、
どんな人間なのか、何を大切だと考えて、
どんな価値観で生きているのか、
自分は本当はどんなキャラなのか
外の人には分かりにくい。
そうなれば、適材適所に配置されることは
難しくなってしまう。
もしも、最初から普通に自己開示ができて、
「僕は人と接するのが苦手で、
営業職には向きません。でも、
パソコンに向かって、一人で淡々と
作業をするのは得意です」と
外の人に表現できれば、
「じゃあ、私が営業をやりましょう。
私はそういうのが得意です。
その代わり、私の不得意分野である
パソコンの作業はあなたにお任せしますね」
という人が出てくる。
お互いに得意分野を専業すればよいのだ。
皆が自分はこういう人間だ
とはっきり表現することが許されれば、
この人はこの部署に行って、
この仕事をするのが一番よい。
あの人はあの部署に行って、
あれを担当するのが効率的だ、
と明らかになる。
自分の能力や才能、資質を
最大限に活かすためには、
やはり、自分がどんな人間なのか
外の人に知って貰うことが必要だ。
そのためには、空気を読むために
素の自分を隠してしまうことは
役には立たないと言える。
3)創造性が高くなる。
空気を読めないと虐げられる環境下では、
自由な自己表現がしにくい。
「こういう風に表現したら、
他人になんと思われるだろうか?
受け入れられるのだろうか?」
と心配しながら考えても、
ステキなアイデアは生まれない。
クリエイティビティや創造性は、
自由に考えることができるから、
良いものが生み出されるのだ。
「こんなことをしたら、
皆に笑われてしまうな」
なんて心配していれば、
自由に創造することも不可能だ。
私が受けた日本の教育は、
第二次産業革命後の人材育成の要素が
根強く残っていたように思われる。
機械により大量生産が可能となった。
この時期、社会が求めていた人材は、
時間をきっちり守れる人。
流れ作業をしても、きちんと適応できる人。
同じ作業を淡々と繰り返しても、
何も文句を言わずに働いてくれる人。
上から指示されることに疑問を持たず、
「はい、はい」と従順に動いてくれる人。
下手に個性を出されることは、
雇い主にとっては不都合だった。
時代はすっかり変わり、
コンピューターやAIで
様々な仕事をこなせるようになっても、
昔のなごりが未だに強く残っているのが
日本社会なのかもしれない。
しかし、これからの時代では
言われたことを従順にこなす作業は
AIがすべてやってくれるはずだ。
人間のほうがコンピューターよりも長けることは
クリエイティビティの分野だ。
クリエイティビティを育てるためには、
空気を読む教育をすることは
役に立つどころか、マイナスになる。
時代の流れを考えても、
空気を読むよう努めるよりも、
自分らしさを大切にして、
自由な表現ができたほうが望ましい。
創造性が豊かになったほうが、
新しい時代によりよく適応できるからだ。
空気を読めないことで悩む人がいたら、
悩む必要は全くない。
自分がラクに生きるためにも、
適材適所に配置可能になるためにも、
創造性を豊かにするためにも、
自分らしさを堂々と外に見せたほうがよい。
「僕はこういうキャラで、
僕にとって大切なことは~です。
こういう考えを持ち、
こういう価値観を大事にしています。
得意分野は~で、~することは嫌いです」
と自己開示をはっきりしたほうが、
他人にもよりよく理解されるので、
トラブルも少なくなる。
空気を読む努力をするよりも、
自分を他人に正しく理解して貰えるために
どうすればいいのか考えたほうが
ずっと建設的なのではないか?
と私は考えている。