今回は、
「我慢に関して、
ちょっと考え直した方が
いいのでは?」という話。
何も疑うことなく、
当然のことのように
我慢していることも多い。
でも、その我慢、
本当にする価値があるのか?
もしかしたら、
やめた方がよい我慢も
あるかもしれないからだ。
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我慢のコスパを
考えたことはあるだろうか?
コスパとは、
コスト・パフォーマンスの略。
費用 対 効果のこと。
支払った費用と、
それにより得られた利益
を比べてみて、
支払った費用よりも、
得られたものが大きければ、
コスパが高い(良い)と言える。
逆に、大きなコストを
支払ったにもかかわらず、
得られるものは少なくて、
イマイチだという場合は、
コスパが低い(悪い)と言える。
我慢についても、
コスパを考えることが可能だ。
今している我慢は、
どのくらい大変で、
どのくらいの代償を
伴うものか?
その我慢をした結果、
自分はどんな良いものを
得られるのか?
その我慢のお陰で、
どんな素晴らしいことが
あるのか?
こう考えれば、
ある一つの我慢に対して、
する価値のある我慢か?
そうではないか? を考えられる。
我慢の度合いを
数値化してみれば、
分かりやすいだろう。
たとえば、我慢の程度が
80くらいで、
その結果、得られるものが
100だとしたら、我慢する甲斐はある。
しかし、我慢が200くらいで、
我慢による収穫がたったの20なら、
そんな我慢は馬鹿らしくないか?
我慢をする時には、
辛かったり、
苦しかったりしても、
その後で、その我慢に見合うほど
良いことがあるのならば、
その我慢は
する価値があるだろう。
しかし、我慢のほどが
大きすぎて、
しかも、その我慢は
終わりが見えない。
そして、我慢の果てには、
ほとんど何も良いことが
待っていない場合もある。
辛いだけ……。シンドイだけ……。
苦しいだけ……。
もし、そんな我慢だったら、
ちょっと考え直した方が
賢明ではないか?
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いやいや、我慢を
損得で考えること自体
適切ではない! と思う人もいる。
正しいことを行うために
我慢することもあるからだ。
道徳的、倫理的に善だ
と信じることをするのに、
我慢しているのだから、
我慢するのが当たり前で、
そうするべきだ
と考える人もいる。
我慢すること自体が
立派であり、
人として我慢するのは
素晴らしいことだ
と思う人もいる。
我慢による利益はなくても、
立派な行いだから
我慢するのが当然だ。
我慢することで、
自分は人として
尊敬されるべきことをしている。
そう感じる人もいるだろう。
しかし、これもちょっと
疑った方がよい。
なぜなら、我慢が美徳な
社会風潮の中では、
我慢することが当然だ
と思われても、
この考え方は
絶対的に正しいこと
ではないからだ。
我慢を称賛する国では
我慢できる人は
立派で優っていると称えられる。
しかし、その国から
一歩外に出れば、その考え方は
通用しなくなることもしばしばある。
場所が変われば、
そのように考えない人たちが
大多数という国もあるのだ。
どこの場所でも、いつの時代でも、
誰もが口を揃えて、
「これは正しいことだ」と言える
絶対的な「正しいこと」は、
どこにも存在しない。
自分が「これは正しい」
と思うことは、
単なる一つの考え方にすぎず、
誰にでも
通用するものではない。
このことは、生まれも、育ちも、
ずっと一つの国。そこでしか
生活したことがない人には、
なかなか理解されにくい。
しかし、別の国に
ある程度、長い間、
滞在した経験があれば、
そのうち、
痛いほどよく分かるようになる。
今まで自分が「これが正しい」
と信じ切っていたことも、
別の国では、
そうではなかった
と知らされるのだ。
我慢が美徳の日本で
ずっと生活していれば、
周りの人たちも皆、
当然のように
我慢しているから、
自分もそうするべきだと思い、
当たり前に我慢している。
我慢することが
正しいことで、素晴らしい
と考えるから、
我慢することを
正当化できる。
もちろん、そういう
考え方もありだ。
しかし、もしも、
その考え方は単なる
一つの考えにすぎず、
そう考えなくても
全然構わないという
状況になった時、
自分は我慢が
美しいことだとして、
なんでもかんでも、
どんな我慢でも、
やりたいと思うだろうか?
我慢しなくても、
周囲の人たちに
非難されなくなった時、
それでも、自分は
その我慢をしたいだろうか?
我慢することが
称賛されなくなった時、
自分はその我慢を
ずっと継続したいだろうか?
その我慢を自ら好んで
するのなら、
全く問題はないけれど、
そうではない場合も
あるだろう。
我慢が良いことだと
考えるのは、
単なる一つの考え方にすぎない。
絶対的に正しいこと
ではないのだ。
その上で、やはり、
自分はこのような考え方を
したいのなら、すればよい。
しかし、そうでなければ、
そう考えなくても構わない。
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我慢には
大きなリスクもつきものだ。
我慢する理由が何であれ、
大きな我慢を
しすぎたせいで、
最悪な事態になり得ることもある。
極度な我慢が続いたために、
自分自身を
破壊してしまうこともあるからだ。
たとえば、ブラック企業で
働いている場合。
極度な長時間労働や
不当な仕事量を課して、
労働者に劣悪な労働環境を強いる
職場で仕事をしていても、
何も疑うことなく、
辛いと感じながらも我慢して、
一生懸命働いている。
もし、弱音を吐けば、
「周りの人たちは
皆、我慢できているのに、
お前だけが、なぜ我慢できないのか?」
と非難される。
そんな環境下で
仕事をしていれば、
それが当然だと思われて、
自分も我慢してやらなければ
と思ってしまう。
そのため、
自分に鞭を打ってでも、
無理して自分を働かせる。
疲れても、休めないし、
ちょっと休憩することも
許されない。
しかし、長期間、
そんな生活をし続ければ、
そのうち自分もエネルギー切れ
になってしまい、
取り返しの
つかないことが起きる。
自分のキャパを
大幅に超える我慢が続けば、
人は病んでしまうからだ。
鬱病を患ったり、
深刻な身体の病気になり、
もう暫くは働けない身体になる。
場合によっては、
精神的に酷く病んで、
自らの命を絶つ人もいるくらいだ。
そこまでは行かなくても、
一旦、メンタル疾患を
経験すれば、
立ち直るのに、
非常に苦労したり、
寛解できても、その後の人生に
大きな後遺症を
残すこともしばしばだ。
そういうリスクを無視して、
我慢して耐え抜くことが
立派で美しいことだと思うのは、
馬鹿げていないだろうか?
もともとは
自分を向上させたり、
良い状態にするために、
頑張っていても、
やりすぎれば、
元も子もなくなる。
向上するどころか、
良い状態になるどころか、
自分自身が壊れてしまう
という最悪な結果になる。
そこまでしてやる価値は
本当にあるだろうか?
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普通に社会生活を
営んでいれば、
多少の我慢は仕方ないだろう。
しかし、過度な我慢が
長期間続けば、
心身ともに悪影響が出てくる。
我慢が美徳な国では、
周りの人たちが
何も疑うことなく、普通に我慢している。
だから、自分も同様に
我慢していることが多い。
でも、ちょっと立ち止まり、
考えてみるのもよいだろう。
今、自分がしている我慢は
本当に必要なのだろうか?
その我慢は
やる価値があるのだろうか?
当然のこととして
やっていた我慢でも、
冷静に考えてみれば、
やらなくてもよいものも
あるはずだ。
それならば、
その我慢はやめてもよい。
なんでもかんでも
疑うことなく、当然のこととして、
我慢するのは、もうやめにして、
我慢する価値があるのか?
十分考えてから、した方が賢明だ。
なぜなら、我慢は必ずしも
美しいものではないから。
自己破壊的に終わる
愚かな我慢もあるからだ。
自分が今している我慢を
一つ一つ考えるのは、
とても意義あることだ。
その我慢、これからも
続けて行く方がいいのか?
是非、考えてみよう!