私のメンタル疾患は小学校4年生の時に始まった。学校帰りに見知らぬ男につけられ、自宅のドアを開け家に入ろうとしたとき、私と一緒にその男も家に侵入してきた。両親は仕事に出ており、私は自宅内で性的暴行を受けた。「服を脱げ! 早く脱げ! 俺の言うことを聞かないと、お前を殺すぞ!」と脅迫され、首を絞められた。そのとき感じた死の恐怖を、私はその後も何度も繰り返し体験することになった。
この事件から2カ月ほどしたある日、私はフラッシュバックを経験した。そしてそれ以降、私の身体に様々な不快な症状が出始めた。喉の奥に物が詰まったような感覚があり、普通に食事ができなくなった。心臓のドキドキと息苦しさで死の恐怖に襲われた。発作は突然起こり、同時に両手や両腕のしびれた感覚、吐き気、頭がクラクラして血の気が引く、冷や汗が出て生きた心地がしなかった。頻尿が酷く、膀胱に尿が溜まっていなくても、強い尿意をもよおし30分に1度の頻度でトイレに行った。入眠が難しくなり、ウトウトはしても熟眠できず、朝もきちんと起きられなかった。これらの身体の不快な症状に加えて、精神的にも不安や心配が強く、居ても立っても居られない状態だった。
このとき、私の心身に起きたことを周囲の大人たちが正しく理解して、適切な対処をしてくれたなら、私はその後、こんなに苦しむことはなかっただろう。しかし、当時の日本ではPTSDの概念を理解する人はいなかった。
総合病院の内科では身体の検査を受け、精神科にも行き診て貰った。どちらも「異常なし」の結果だった。精神科医が母に対して言ったのは「この子は精神が弱いだけです」ということ。
どこも身体に異常がないのに、私の身体の不快な症状は強く、普通の生活ができなくなった。「お前が弱いからこういうことになるんだ。もっと強くなれ! 怠けているんじゃない!」と両親は私に対して厳しい態度を見せた。
私は体調が悪くて、学校でも異様な存在に見えたのだろう。クラスの悪ガキ男子数名から、「なんでそんなに頻繁に便所に行くんだ? 便所虫か? おめえ臭い! 臭い!あっちに行け!」と嘲り笑われ、馬鹿にされた。言葉の暴力だけでなく、殴る、蹴る、給食の残飯を投げつけられるなど酷い虐めを受けた。
息苦しさを頻繁に感じた私は、両手を頭の後ろで組み、身体を反らせる姿勢をとった。この姿勢をすれば大分呼吸がラクになったからだ。この姿勢が滑稽に見えたらしく、虐めっ子たちが私の真似をした。その時、クラスの担任教師も一緒になって私のことを笑って馬鹿にした。
そんなある日、私は登校拒否をするようになった。
学校は義務教育。どんな理由があれど、学校へは行かねばならない。父はそう言って、登校拒否する私に体罰を与えた。毎晩、仕事から帰宅して、私がその日に学校へ行かなかったことを知ると、父はスゴイ権幕で私を怒鳴りつけ、力の限り殴る、蹴るなどの暴力を振るった。
父が私に暴力を振るう時、私は事件の当日味わった死の恐怖を何度も再体験した。私は本気で父に殺されてしまうと思った。毎晩父の帰宅時間が近づくと、私はパニック発作を起こすようになった。
両親からも、学校の教師からも、同級生たちからも私は自分の病気を正しく理解されなかった。そして、私自身も、こんな状態になってしまった自分を情けなく思った。身体の不快な症状で普通の生活ができなくなった私は、その原因が自分の精神の弱さにあると信じて、自分自身を責めた。自分がきちんと生活できないことに対して、大きな罪悪感を持つようになった。
母は決して暴力を振わなかったが、ネガティブ言葉を連発して、私を酷く苦しめた。「ダメな子」「どうしようもない子」「困った子」「できない子」「人間のクズ」「人間失格」そういう言葉を使って私のことを非難した。
身体の不調に苦しむだけでなく、疎外感、劣等感、罪悪感が強く、私の心は苦しめられた。当時の私は10歳。まだ、大人のサポートなしでは生きてゆけない年齢だ。出口の見えない真っ暗なトンネルに迷い込んだような気がして、自分には未来はないと信じていた。死ぬことに大きな恐怖を抱きながらも、死んでしまえばラクになると思い、自殺を考えたこともある。
このような感じで、私のPTSDは複雑化していった。しかし、自分が複雑性PTSDになっていたことを、私は長い間知らなかった。50歳を過ぎてからカウンセリングに通うようになり、その時、初めて専門家よりそのように説明された。
中学生になり身体の症状も大分治まり、表面上は普通の生活ができるようになったが、私の心はかなり病んでいた。強い疎外感や劣等感、罪悪感に悩まされた。小学生の時よりは身体の調子は良くなったが、その後も自律神経失調症のような症状が時々起こり、私のことを苦しめた。
成人してからも私は自分に自信が持てず、自己肯定感が非常に低かった。社交性がなく、対人恐怖症的な面が未だにある。人間関係の問題に遭遇すれば、常に自分が悪いからだと感じて、自分のことを責めて罪悪感を持つ傾向にある。現在、私は50代半ば。あの事件から40年以上経つ今でも、子供の頃に経験したことが、大人になってからの人生に影響を及ぼしている。
こんな私が、長年苦しんだ身体の症状が軽減したときの話をしてみたい。
身体に異常がないのに不快な症状に苦しんでいた時、私は自分自身にプレッシャーをかけて、どうにかこの症状から解放されようと頑張った。「私は病気ではないんだ」と自分自身に何度も言い聞かせて、病気でないふりをしたこともあった。しかし、残念なことに、病気を排除しようと思えば思うほど、私の身体の症状は強くなった。
ある日「もういいか」と諦めてしまった時がある。症状を取り除く努力に疲れ果てたのだ。「症状があっても、もういいや」と思えた時がある。すると私の身体に不思議なことが起きた。今まで不快だった症状が徐々に軽くなるのを感じた。
「病気があってもいい」と諦める気持ちが出ると、身体の症状は落ち着くことに気がついた。諦めるといっても、これは良い意味での諦めだと思う。自分の身体の状態を無理に変える努力は止めて、そのまま受け入れてしまうということだ。
これができるようになってから、私の身体の不快な症状はみるみるうちに改善された。
そこで私は考えた。なぜ、治そうと頑張る時には、症状が強くなり、逆にそのままの状態を受け入れるときには改善されるかの理由を。いろいろ考えた末、自分なりの回答が見つかった。
私の回答は「とらわれ」で説明できる。不快な症状を取り除こうと一生懸命になるとき、意識のフォーカスはその症状に集中してしまう。逆に「この症状を受け入れよう」と諦めた時、意識のフォーカスは症状から外れる。つまり、身体の症状にとらわれなくなるのだ。そうすると、生活面で他のことに意識を向けられるようになる。身体へのとらわれがなくなると、自然と症状が軽減されるように感じられた。
これは私が身をもって体験したことだ。
複雑性PTSDがあるからといって、365日24時間のすべての時間をPTSDで苦しんでいるわけではない。私にも健全者と同様に、自分の人生で大切なことに集中したり、ごく普通に生活することもある。
もちろん、時にはちょっとしたことで突然フラッシュバックを経験することもある。精神的なことが原因で、身体の不快感を覚えることもある。
そういう時には「私はトラウマがあるんだ。だから、それが起きても仕方がない」と受け入れてしまう。フラッシュバックや不健康な心の状態を自覚できても、罪悪感を持つことなく、あまり深く考えないようにする。そうすれば、再び普通の生活に戻ることができる。
私はメンタル疾患で苦しむあなたに伝えたい。苦しい時は確かにある。だけど、それがあなたのすべてでないことを思い出して欲しい。「こういう不快な症状は私の生活の一部だ。でも、私の生活のすべてではない」と思い、受け入れてしまってはどうだろうか?
そうすれば、気持ちも大分ラクになる。「症状があってもいいんだ」と良い意味で諦めがつけば、症状に対するとらわれもなくなり、症状がないときの自分をもっと楽しむことができるようになる。 私は思う。自分のメンタル疾患の不快な症状をありのまま受け入れてみようと。それは良い意味での諦め。それができれば病気へのとらわれも少なくなる。そして、不快な症状にフォーカスが当たらなくなり、元気なときの自分をより楽しめる時間も多くなる。