苦しみから始まった新生活:ニュージーランド移住初期の試練

ニュージーランドに移住してから、
気づけば33年が経ちました。

今では、豊かな自然に囲まれ、
素晴らしい人々との
つながりに支えられ、
穏やかな日々を過ごしています。

しかし、
初めからこのような生活が
あったわけではありません。

むしろ、
移住当初は毎日が苦しく、
心が折れそうになることも
度々ありました。

今回はその当時のことを
お話しします。

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シングルベッドとラジカセが唯一の所持品!

私がニュージーランドに来たのは
1991年のことです。

パーマストンノースの大学に
留学するために渡航し、
留学中の3年間は
ホストファミリーのもとで
過ごしました。

勉強は大変でしたが、
ホストファミリーの
温かい支援もあって、
まずまずの留学生活を
送ることができたと思います。

しかし、大学を卒業し、
ウェリントンでの就職が
決まってからの生活は、
まさに試練の連続でした。

当時の私にとって
最もつらかったのは、
何といっても「貧乏」
という現実でした。

留学生活の3年間で、
私の貯金はほとんど
底をついていました。

パーマストンノースでは、
ホストファミリー宅で
家電や家具などの
生活必需品をすべて
使わせていただいていたため、
特に困ることはありませんでした。

ところが、ウェリントンに
引っ越してきたときには、
生活に必要な基本的なものすら
持っておらず、
買いたくても
お金がない状態でした。

その当時、私の所持品と言えば、
シングルベッドと
ラジカセと呼ばれる
ラジオ兼カセットプレーヤー
だけでした。

テレビもなかったため、
毎日の楽しみは
ラジオを聴くことくらいでした。

幸いにも、仕事はあったので、
何とか食べていけるだけの
生活費は稼いでいましたが、
毎月の給料は
家賃や食費で消えてしまい、
余裕はほとんどありませんでした。

予想外の出費があったときには、
どうやって乗り切ろうか
と悩むこともありました。

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一人寂しくコインランドリーまで歩いていた日々

洗濯機もなかった私は、
週に一度
コインランドリーまで
足を運んでいました。

この洗濯がまた一苦労でした。

車もなく、1週間分の洗濯物を
大きなビニール袋に詰め、
それを肩にかけて歩いていたのです。

仕事が終わった後、
疲れた身体で重たい袋をかつぎ、
真っ暗な道を一人で歩くのは
本当に寂しく、
心身ともにしんどかったです。

雨が降っていない日は
まだマシでしたが、
大雨と強風が吹き荒れる日は
まさに試練のようでした。

とはいえ、
洗濯をしなければ
着る物がなくなるので、
無理にでもコインランドリーへ
行かざるを得ませんでした。

ウェリントンは、
風の強さで知られる場所です。

普通の日でも、
台風が来たかのような強風が
吹くことも珍しくありません。

雨と風が強い日には、
傘をさすことさえ難しくなります。

そんな悪天候の日に
どうしても洗濯が必要なときは、
「本当につらいな…」と思いながらも、
しぶしぶコインランドリーまでの道を
歩いていました。

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冬の寒さは厳しい!室内で吐く息が白くなる毎日

今でこそウェリントンで
快適な生活を楽しんでいますが、
移住当初はこの街に馴染むのに
苦労しました。

友達がいない寂しさも
ありましたが、
冬の寒さには
心が折れそうでした。

ウェリントンの夏は
涼しく過ごしやすいものの、
冬になると話は別です。

東京の冬より
気温は高いかもしれませんが、
強風が吹き荒れることで
体感温度はぐっと下がり、
厳しい寒さが身に染みました。

特に南風が吹く日には、
風の冷たさが
さらに寒さを強めます。

ウェリントンでは
雪がほとんど降らず、
氷点下になることもないため、
一般的に家屋の暖房設備は
あまりしっかりしていません。

そのため、冬場の家の中は
外とほとんど変わらない寒さで、
室内で息が白くなることも
よくありました。

風が強い日には、
隙間風が家の中を吹き抜け、
夜は布団の中で震えながら
過ごしていた記憶があります。

移住したばかりの頃は、
ヒーターを買うこともできず、
日本から持ってきた湯たんぽだけが
頼りでした。

その湯たんぽでベッドを温め、
一人でラジオを聞きながら、
厳しい冬をどうにか
乗り越えたのです。

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つらくても日本に帰りたくなかった理由

貧乏生活や厳しい冬の寒さにも
苦しみましたが、
私にとって最もつらかったのは、
その当時勤めていた職場が
自分に合わなかったことです。

そのころ、私はワークビザで
ニュージーランドに滞在しており、
もしその仕事を失えば、
この国に留まる資格も失う
という不安定な立場にいました。

経済的な理由だけでなく、
ニュージーランドに
住み続けるためには、
どうしてもその職場に
しがみつくしかなかったのです。

特別なスキルもなく、
他の企業で雇ってもらえる見込みも
ほとんどない状況でしたので、
自分に合わない職場であっても、
自分を奮い立たせながら
働き続けるしかありませんでした。

職場での精神的なストレスは大きく、
仕事が終わって帰宅しても、
寒さや孤独、洗濯などの日常の困難が
私を待ち受けていました。

そのたびに心が折れそうになり、
何度もくじけそうになりました。

それでも、どうしてもこの生活を
続けなければならなかった理由が
ありました。

それは、日本には絶対に
帰りたくなかったことです。

私は実の両親との関係が悪く、
日本に戻るという選択肢は
私にとって耐えがたいものでした。

ウェリントンでの生活が
どんなにつらいものであっても、
日本に帰るよりはまだマシだ
と思えたのです。

その強い思いがあったからこそ、
私はこの厳しい生活を
どうにか乗り越えることが
できたと思います。

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心温まる瞬間もあった

こんな厳しい生活を送りながらも、
少しずつ家具や家電製品を
買えるようになりました。

一人寂しく暮らしていた
約1年4カ月の間は、
正直しんどい日々でしたが、
その後、パーマストンノースに住んでいた
当時のボーイフレンドが
ウェリントンに転職してくれました。

そして、彼と一緒に住むことになり、
その後、私の生活は
どんどん良くなっていきました。
その彼は、今の私の夫です。

ウェリントンでの寒くて孤独な時期、
そんな中でも心温まることが
ありました。

ギリシャ人の大家さんの、
優しいお心遣いです。

その大家さんは
70代くらいのおばあちゃんで、
私が住んでいた小さなユニットと
同じ敷地内に住んでいました。

職場で疲れ切って帰宅した私に、
大家さんがユニットの戸を叩いて
こう言いました。

「今帰ったばかりでしょう?
お腹が空いているでしょう?
リゾットを作ったから、
夕食にいらっしゃい」と。

彼女の温かい家に招かれ、
シンプルだけど
とても美味しいリゾットを
いただいたとき、
その優しさに思わず
涙がこぼれそうになりました。

また、時々大家さんは、
私のユニットのドアの前に
手作りのショートブレッドを
そっと置いてくれていました。

そのショートブレッドも
驚くほど美味しく、
口の中でとろけるようでした。

大家さんの温かい心遣いに、
どれほど救われたことでしょう。

その優しさが、私にとって
何よりも嬉しく、
ありがたいものでした。

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おわりに

今回は、私の移住当初の
つらい日々について
お話ししました。

この体験について、YouTubeでも
トーク動画を投稿していますので、
合わせてご覧いただけると
嬉しいです。

リンクは以下の通りです:
https://youtu.be/hwZi_FMNC7I?si=WFLIis2rCMkCknmH

また、私は定期的に
YouTubeにトーク動画を
投稿しています。

日本とニュージーランドの違いや、
日本の外から見た日本について、
異文化体験から学んだことなど、
さまざまなテーマで語っています。

これらの動画も、
観て頂ければ幸いです。
https://www.youtube.com/@midori-in-nz

これからも、
応援してください。
よろしくお願いいたします。