醜い遠慮をするくらいなら、しない方がずっとマシ!

日本には「遠慮は美徳」
という文化があるが、
遠慮は必ずしも
素晴らしいことではない。

遠慮の中には
醜い遠慮もあるからだ。

今回は、
醜い遠慮をするくらいなら、
しない方がずっとマシ
という話。

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では、
「醜い遠慮」とはどんなものか?

それは、
自分が我慢して遠慮したせいで、
心の内で不満を感じていたり、

我慢しなかった人に
敵意を抱いていたり、

遠慮した自分は偉い! と自惚れ、
そんな自分を尊敬しろ!
と期待したり、

感謝しろ!
と恩着せがましい態度を取ること。

そんな場合は、
その遠慮は醜いものであり、
やらない方がずっといい。

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たとえば、
美味しいお菓子が
残り一つになった。

もちろん、自分は
そのお菓子を食べたい。

でももし自分が食べれば、
Aちゃんは食べれなくなる。

だから、自分は我慢して
Aちゃんに最後の一つを
譲ることにした。

「遠慮が美徳」の国では、
こういう場面で
「あなたは立派な人ね」
と周りから褒められることが多い。

褒められれば、
自分も嬉しいので
「我慢して良かった!」と思える。

でも仮に
褒めてくれる人がおらず、
Aちゃんも
感謝する様子を見せなければ、
自分はどう感じるだろうか?

それでも何とも思わないのなら、
問題ない。

よくないのは
腹立たしさを感じて、
Aちゃんに敵意を抱いたり、
「誰も自分を認めてくれない!」
とすねたりすることだ。

そんな気持ちになるくらいなら、
我慢してまで遠慮するのは
感心できない。

他人に認められたくて、
遠慮する。

相手に感謝されたくて、
相手に譲る。

こういう気持ちが
背景にあるのなら、
遠慮することは美徳どころか、
醜いものになってしまう。

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自分を犠牲にしてまで、
他者に尽くす人がいる。

その立派な行為を
周囲の人々が「偉いね」
と褒め称えてくれれば、
自分が我慢した部分も、
称賛により埋め合わされる。

でも、誰も褒めてくれる人が
いなかったら、どうだろうか?

腹立たしい気持ちになったり、
バカバカしく思えたり、
なんとなく周囲に対して
憎しみの気持ちが湧いたりしないか?

もしそうであれば、
自己犠牲を払ってまで、
他人に尽くさない方が無難だ。

なぜなら、それにより
自分は不満を抱くから。

満たされなければ、
心がモヤモヤしたり、
イライラしたり。

口に出して
文句を言ったりしなくても、
心の中に不満を抱える人からは、
自然と嫌なオーラが出る。

荒くて不快な波動が放出され、
その嫌なものが周囲の人たちにも
伝染してゆく。

直接言葉で表現されなくても、
非コミュニケーションにより、
不快さは近くにいる人たちに
伝わっていくものだ。

すると、その人たちも
なんだか嫌な気分になる。

ムリしてまで相手に尽くすことが、
最終的には周りの人たちに
不快なものを与えて、
悪影響を及ぼすことになるのだ。

そうなれば、自分にとっても
周囲にとっても、
よいことは何もない。

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他人を満たしてあげる前に、
まずは自分自身を
満たすことが必要だ。

自分が満たされれば、
当然、自分は嬉しい。

自然と幸せオーラが出て、
近くにいる人たちにも
心地よい波動が伝わってゆく。

自分の幸せエネルギーが
溢れ出るほど多くなれば、
ムリしなくても
自然と周囲の人たちに
その幸せエネルギーを分けてあげれる。

そうなれば、自分も幸せ、
相手も幸せという
ウィン・ウィンの関係になれる。

自分が十分満たされていて、
余力がある場合、
他の人に余った部分を差し出すのは、
適切なこと。

しかし、
自分が幸せでもないのに、
ムリに我慢して他人に尽くすのは、
表面的には素晴らしくても、
本質的には自分も相手も
不幸にしてしまう悪いことだ。

そんなことは
しない方が賢明だ。

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まず最初は、
自分が満足することを
最優先事項にしよう!

「そんなのはワガママで
ダメだ!」と感じるのは、
「遠慮が美徳」と信じているせい。

でも、この考え方は
不当な信念にすぎない。

自分が満足していないのに
自己犠牲を払ってまで
他人に尽くしてしまえば、
自分はハッピーになれない。

自分が幸せでなければ、
他人を幸せにすることは
不可能だからだ。

まずは自分を最優先。

自分がハッピーになってから、
有り余る幸せを
周囲の人たちに分けてあげよう。

自分が先で、他人はその次
という順序はとても大切だ。

「遠慮は美徳」を信じるあまりに
我慢してまで遠慮するのは
やめよう!

そんなことをすれば、
それは醜い遠慮になってしまうから。

醜い遠慮をするくらいなら、
しない方がマシだからだ。