これが原因だった! 3つのタイプの完璧主義とそのデメリット

完璧主義の人は、
「物事が完全でなければならない」
と考え、

過度に高い目標設定をして、

常にパーフェクトを目指している。

細かいところまで
注意が行き届き、

万全を期すための
努力も怠らず、

一見、素晴らしい姿勢を持つ
と思われがちだ。

しかし、現実的には、
デメリットも多く、

完璧主義のマインドのせいで
自分や周囲の人たちを苦しめ、

精神的に病んでしまうケースも
珍しくない。

今回の話は
3つのタイプの完璧主義と
そのデメリットについて。

その3つとは、
1)自分に向いた完璧主義
2)社会規範の中での完璧主義
3)他者に求める完璧主義

それぞれ詳しく見てゆきたい。

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1)自分に向いた完璧主義

このタイプは
「自分は完璧な状態でなければ
ならない」と思い込み、

自分で自分を
厳しく律する自己指向型のものだ。

自分の中に
「理想の自分像」があり、
それに沿うよう
一生懸命努力する。

上手く行けば問題ないが、

期待通りにならなければ、
自分は「失格者だ」
とみなして、落ち込んでしまう。

たとえば、試験勉強のために、
毎朝5時に起床して、
通学前の2時間を学習時間に充てる
と決めた場合。

それを守れている間は、
何も問題は起きない。

しかし、時には、疲れが酷くて、
その時間に寝床から
出れなかったり、

目覚まし音が聞こえず、
朝寝坊してしまったり
することもある。

普通ならば、こんな時でも、
「まあ仕方ない」と思えるもの。

しかし、完璧主義者は
決めたことを守れなかった自分は
悪い人間だと思い込み、

自分をなかなか許せない。

「ああ、なんで
起きれなかったんだ!」
といつまでも後悔をして、

決めたことを守れなかった自分を
必要以上に責めて、苦しめる。

人間であれば、
体調が優れない時も、

エネルギーレベルが
低い時もあるのに、

完璧主義者は、
ルールを守れなかった自分を
情けない人間だととらえる。

「これではダメだ!」と感じて、
更に自分を律するような方向で
自分を過度に無理させる。

しかし、自分の期待どおりに
ならなければ、

割とあっさりと諦めて、
「もうダメだ」と降参する。

そうなれば、もう
何もやらなくなってしまうのだ。

空き時間の10~15分くらいでも、
勉強しようと思えば、できるのに、

そういう小さな努力は、
価値がないと感じて、

全くやらなくなる。

完璧主義者は、
物事が期待通りに動かない時、

平均的な人たちよりも、
早くに諦める傾向にある。

やる時には、
徹底的にやるけれど、

やらなくなれば、
何もやらないという状態。

「100」か「0」か
のどちらかの状態しか選べない。

適当にやり続ける
ということができない人だ。

自分に対して向く
完璧主義の姿勢は、

自分で自分の首を絞めて、
精神を病ませることが多い。

特に、理想とするものと、
自分の実際の姿に
大きなギャップがあればあるほど、

自分を追い詰めて、
シンドクさせてしまう。

自分を破壊するのも
ほかならぬ自分。

冷静に考えれば、
愚かなことであるが、

そのことに
気づかないこともしばしばだ。

自分の期待に沿えない
自分自身に失望して、

自分を無価値な人間だ
と思い込む傾向にあり、

自己肯定の気持ちが低く、

満ち足りた気分になったり、
幸せを感じることも少ない。

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2)社会規範の中での完璧主義

このタイプの完璧主義は
社会や他人が要求する基準に
自分を合わせようと頑張る人。

自分が社会の期待に沿って、
立派だと思われる状態にいることを
重視する人が陥るものだ。

「プロはこうあるべき」とか、
「男はこうするべき」とか、
「女はこうしなければいけない」
という類のものだ。

たとえば、
「男は強くなければ生きていけない」
という考え方は、

無意識でも多くの人たちの
心の奥底にあるものだ。

男性なのに、涙もろいのは
あってはならないこと。

そういう風に考えるから、
どんなにツライことがあっても、

絶対に泣いてはいけない
と信じ切っている。

もし、自分が泣いてしまい、
それを誰かに目撃されたら、

自分は失格者のレッテルを貼られ、
ダメ人間として扱われる。

そうならないよう、
絶対に弱音を吐くことはなく、

常に強く振る舞うように
一生懸命頑張る男性もいる。

この頑張りは、
かなりシンドイものだ。

30歳にもなれば、結婚するべきだ
という考えも、
昔の日本にはあった。

この基準に縛られて、
不幸になった女性もいる。

結婚したい人がいないのに、
無理矢理見合いをさせられて、

好きでもない相手と
結婚してしまったのだ。

30歳前に結婚できなければ、
恥ずかしい人だ
と周囲から見られてしまう。

親や親戚の人たちも、
そのように考えるので、

体裁を整えるために、
嫌でも結婚してしまった。

そうすることで
社会や親戚の期待には沿えたから、
一時はほっとするだろう。

しかし、この夫婦生活が
上手く行かない場合、

自分の心底望むことを
していないので、

後悔は大きい。

不幸な人生を
歩むことにもなり得る。

結婚したのは
もともと自分の選択では
なかった。

親や親戚が
「そうするのが一番いい」
と言ったから、

社会一般的に
そうすることが望ましい
と思われていたことだから、

それに従って、
自分の気持ちは無視して、
結婚したのだ。

でも、これは、自分自身が
心底望んだことではない。

だから、困難にぶつかった時、
乗り越えることも難しい。

このタイプの完璧主義者は
自分軸では生きていない。

周囲の人たちや
社会一般に言われることが
気になって、

常に他人の顔色を伺い、他者を
優先させてしまう傾向にある。

他人に合わせた結果、
「自分がしたいように
人生を生きていない」
という残念なことになる。

しかし、自分自身は
社会で認められることに
重きを置いているので、

自分の意向を
無視していたことに
気づいていない時期もある。

中年になって初めて
自分は自分の人生を
生きておらず、

他人軸で生きてきた
と自覚することも起きるのだ。

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社会規範というものは、
その社会で生まれ育った人には、

当然のことだと受け入れられて、

誰も疑わないことが多い。

そうするのが当たり前なので、
それに従って生活している。

しかし、その社会から
外に出た時、初めて分かる。

また、時代が変わって、
人の考え方も変わった時、

今まで信じてきたことは
絶対的には正しくなかった、
と気づくことになる。

たとえば、
私が育った昭和の日本は、
男尊女卑の風潮が強かった。

男が外で働いて、収入を得て、
一家を支えるのが普通。

女性は家を守って、
裏で男性を支える役割があった。

多くの女性が結婚を機に
退職して、家庭に入るのが
当然だった。

「寿退社」という言葉が
あるくらいだ。

そうすることが当たり前
の時代もあったのだ。

そんな時代に、
「いや、私は専業主婦には
なりません。

仕事が楽しいので、
キャリア志向で生きたいです」
なんていう人がいたら、

親や親戚から
「とんでもない奴だ」
と非難されて、叩かれた。

今では時代も大分変り、
結婚後も、出産後も
仕事を続ける女性も沢山いる。

しかし、その当時の日本では、
キャリア志向の女性は
かなりの少数派だった。

同じ国でも、昭和時代の人が
信じ切っていたことと、

令和の今の私たちが
普通だと考えることは
全然違うものだ。

また、ある国では
当たり前のことだと
思われていることでも、

ところ変われば
その当たり前は
当たり前ではなくなる。

たとえば、
私の住むニュージーランドでは、

先住民族・マオリの人たちは
入れ墨することが
神聖な行為になっている。

しかし、日本の社会では
入れ墨は良くないことだ
ととらえる人が多い。

入れ墨をする人は
ヤクザか不良だ
と言う人もいるくらいだ。

同じ時代でも、国が変われば、
全く違った考え方をする人たちがいる。

そう考えれば、
いつの時代でも、どこの場所でも
誰もが一致して肯ける
絶対的な「こうあるべき」は存在しない。

それなのに、
今自分が生きる社会で、
「こうあるべきだ」という
考えがあるからと言い、

自分はそうは思わないのに、
不当にその信念に縛り付けられ、

自分の望むこととができず、
社会や他人に無理に迎合するのは、

残念で、悲しいこと
ではないだろうか?

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3)他者に求める完璧主義

このタイプの完璧主義は
他人に非現実的なレベルの
完璧を求めてしまうこと。

完璧であることを
他者に厳しく要求する。

しかし、現実的には
その高い基準の完璧さに
応えられる人は滅多にいない。

完璧を求める立場では、
自分の期待に沿えない
相手に対して失望して、
敵対心を抱くこともある。

期待された相手の立場でも、
不当な要求をされて、
迷惑だと感じることもしばしば。

そのため、
このタイプの完璧主義は
人間関係のいざこざを生みやすい。

特に、親密な関係であるのに、
円満な関係を築けない親子間では、

互いに相手に完璧を求めることが
原因となっている場合も多い。

親の立場では、
「理想の子供像」があり、

自分が子供にこうなって欲しい
という期待をしている。

よく勉強して、
学業成績も優秀で、

親の言うことをハイハイと
素直に聞いて、従ってくれる子供。

親が大変な時には、
何も言わなくても、
自ら気を利かせて、手伝ってくれる子供。

そんな理想の子供像を
期待している親もいる。

しかし、実際の子供の姿は
どうだろうか?

子供の立場でも、
理想の素晴らしい親像を
頭の中で描いている。

子供がどんな状態でも、
無条件の愛で
温かく接してくれる親。

親は常に、
立派な行いをして、

子供の自分にとっては
お手本になって欲しい
と期待する。

子供の願いを聞いてくれて、
子供の欲求を
いつでも満たしてくれる親。

そんな風に考えても、
実際の親の姿はどうだろうか?

お互いに期待外れで、
がっかりしているのでは?

これが現実だ。

お互いに
自分の理想に沿えない相手を
非難すれば、

お互いの人間関係も
悪い方向へ行き、

そのうちに、
親密な関係にあるはずなのに、

縁が切れたような
状態になることも珍しくない。

お互いがお互いに
過度な期待をして、

その期待を裏切られて、
失望するのと同時に、

相手を責め立てるので、

人間関係は
どんどん崩れてゆく一方だ。

他者に向く完璧主義は、
自分を苦しめるだけでなく、

相手をも苦しめて、
互いの人間関係を壊す。

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人生生き辛い……

なんだかしっくりこない……

どうも人間関係が
上手く行かない……

そんな悩みがあったら、

もしかしたら、その悩みは
完璧主義的姿勢から、
発生するものではないか?

一度は疑ってもいいだろう。

なぜなら、
自分で気づかない場合も
あるからだ。

自分自身に
過度な期待をしていないか?

「こうするのが正しい」
と多くの人たちが信じることに
無理に自分を合わていないか?

他人にも非現実的なほど
不当な要求をしていないか?

それにより、
自分自身や他人を苦しめ、

人間関係を悪くしていないか?
考える価値はある。

人間という生き物は、
そもそも不完璧な存在だ。

どんなに優秀な人でも、
どんなに立派な人でも、

人間である以上、
完璧にはなれない。

不完璧な人間でも、
その不完璧さを受け入れて、

不完璧な私たちが
それぞれ今自分ができることを
提供し合い、

助け合いながら生活する方が
楽しいだろう。

自分を責めることもなく、

他人を責めることもなく、

「こうあるべき」に
縛り付けられることもなく、

今の状態を受け入れて、
心を軽くした方が、幸せになれる。

もし、完璧な状態への執着が
あるのなら、

それは手放してしまった方が
心の平安も得られやすくなる。