人間ってそんなに怠慢で、できれば何もやりたくない生き物なの?

ベーシック・インカムの
是非をめぐるディスカッションで、
ある人がこんな発言をした。

「ベーシック・インカムが導入されれば、
怠慢な人間は何もしなくなるだろう。
その結果、社会の進歩が妨げられるので、
ベーシック・インカムには反対」
という意見だ。

この発言を聞いた時、
私は大きな疑問を持った。
「そんなに人間は怠慢で、
できれば何もやりたくない動物なのか?」

私はそうではないと思う。

現代社会のように
多くの人々が忙しすぎる環境下では、
「極力、やることを少なくして、
ラクして生きたい」
と願うのは、当然のことだろう。

周囲の人たちや、社会環境により
精神的に圧力をかけられて、
自分がやりたくないことまで
義務でやらされている人は、
「やらないで済むのなら、
それに越したことがない」と思うだろう。

しかし、もし、
全く何もする必要がなくなり、
外界からの望ましくない圧力を
一切受けなくなれば、
本来の人間の姿では、
「自分の好奇心を満たして、
自分にとって有意義な活動をしたい」
と思わないだろうか?

赤ちゃんや、子供の発育を
よく観察してみれば、
そう感じることもしばしばだ。

一歳前後になれば、
赤ちゃんは自ら歩き始める。

最初のうちは
自力で立ち上がるのもままならない。
何かにつかまり、
やっとこさで立ち上がる。

やっと立てるようになっても、
よちよち歩きで、すぐに転ぶ。
拙い歩き方で、転んでは起き上がり、
転んでは起き上がりを繰り返す。

そんな赤ちゃんの姿を見れば、
自分で歩きたい気持ちが
強いことが分かる。

転んでも、
一生懸命立ち上がろうとして、
再び立ち上がっては、歩き始める。

これは赤ちゃんが
「歩けるようにならないといけないから」
と言い、義務で努力しているのではない。

何度も何度も転んでも、
それでも立ち上がり歩こうとするのは、
自分が歩きたいと思うからだ。

転ぶたびに、「ああ自分はダメだな」
なんて落ち込むこともないし、
転ぶことで劣等感も抱かない。

「歩けなかったら、どうしよう」
なんて悩むこともない。

自分は歩くべきなのか否かなど
考えることもない。

とにかく、歩きたいから
何度転んでも、歩こうとする。

「自転車に乗れるようになりたい」
と自ら望んで、練習する子供も同様だ。

最初はバランスが上手く取れず、
スムーズには進まない。

転び転びを繰り返して、
そのうち徐々に上達してくる。

上手くなるに連れて、
自転車に乗ることが楽しくなる。

お母さんが
「もうご飯だから、家に入りなさい」
と指示しても、それでもやめたくない。

自ら練習したい子供は、
義務でやらされてはいないから、
努力している感覚は全くない。

上達するにつれて、
楽しくなってくるから、
自らやりたいと感じている。

しかし、時には、
「自転車に乗れないといけません」
と言われて、
強制的に練習させられる子供もいる。

もし、子供がやりたくなければ、
自転車の練習はツライものになる。

子供だけでなく、大人になってからも、
自らやりたいことをやるのと、
やりたくないのに、
義務感でやっているのとでは、
同じやるでも、大分違ったことになる。

やりたいことは自然とやる。

しかし、やりたくないことは
誰かに強制されたり、環境により、
「それをしなければいけない」
と自分に無理強いをして、
嫌々やるはめになる。

現代社会で、人間が怠慢に見えるのは、
怠け心があるからではなく、
他に理由があるからだと私は考える。

自分としてはやりたくないが、
社会的な立場や、その他の理由で、
「やらなければならない」と思うから、
嫌でもムリにやっている。

義務感でやっていることを、
罪悪感を持つこともなく、
やらないでよくなれば、
喜んでやめるだろう。

やる必要がなくなり、
やらなくても周りから
責められることもなくなれば、
やりたくないことは、やらないだろう。

でも、自らやりたいことは
自然とやってしまうものだ。

やる必要がなくなっても、
やりたいことなら、
やらなくなることはない。

本当はやりたいことでも、
あまりにもやることが多すぎて、
疲れているからやりたくない
ということもある。

他に何もやることがなくなり、
自分の時間とエネルギーが十分あれば、
自然と何かをやりたくなるものだ。

さもないと、非常に退屈だから。

引きこもりで、ずっと部屋にこもり、
何もしていないように見える人は、
怠慢なのだろうか?

これも違うと言える。

なぜなら、引きこもりをする人は
周囲の人たちには理解されていないが、
多大な精神エネルギーを使っているからだ。

色々悩み過ぎて、
メンタルを病んでしまった人は
心的エネルギーを使い果たして、
ヘトヘトになっている状態だ。

周りからすれば、
何もやっておらず、
怠慢に見えるかもしれない。

しかし、そうなる以前に、
多大な心的エネルギーを使いすぎて、
エネルギー切れになってしまった。

「ゴロゴロしていないで、
何か建設的なことをやりなさい」
なんて言われても、できるはずがない。

エネルギーレベルが低くて、
疲れている人は、何もやりたくない。

怠慢なのではなく、
単に燃料不足の状態なだけ。

「やらねばならない」
と義務でやる場合。

忙しすぎて疲れていて
エネルギー切れの場合。

何らかの理由で
心的エネルギーが枯渇して、
力が入らない場合。

こんな場合には、
「やりたくない」と思う気持ちは
自然であり、何も不思議ではない。

義務感でやる必要はなく、
エネルギーや時間もたっぷりあり、
他に何もすることがなくなれば、
人間は、必ず何かやりたくなるものだ。

何もやらないことは、
退屈に感じるからだ。

「これは面白そう」
と思うものが出てくる。

「こんなことができればいいな」
と感じることを追求したくなる。

自分の好奇心に任せて、
やってみたいことを、やってみれば、
「ああ、楽しい」と感じる。

そのうち、「このことを
もっと掘り下げてゆきたい」
と感じることも見つけて、
どんどん積極的にやるようになる。

こうなれば、
その人は自己実現のために、
楽しんで行動している。

本来、人間は、
自分のやりたいことが見つかれば、
やりたいことに専念したい
という気持ちがある。

子供に限らず、大人でも、
自分がやりたいことは、やりたい。

やりたいことがある時、
外から
阻害する力が加わらなければ、
自然とやってしまうものだ。

何もやらないで、
一生ずっとゴロゴロして、
ラクして生きたいと願う気持ちは、
怠け心のせいではない。

それよりも、
不適切な環境があるからだ。

一つ終われば、またその次と
容赦なくどんどん新しい仕事が入る状況では、
休息して充電する暇もない。

朝は定時に出社しても、
毎晩残業で、帰宅するのも9時10時。
場合によっては、深夜ということもある。

そんな多忙な生活を強いられれば、
疲れてしまい、何もやりたくない
と思うのは当然だ。

これでは、
心身ともに
エネルギー切れの状態になる。

やってみたいことがあるかどうか、
考える暇もない。

たとえ暇やエネルギーがあっても、
外からの望ましくない圧力がかかれば、
やる気が失われることもある。

周りからのプレッシャーにより、
「失敗したらどうしよう」
と極度に失敗を恐れるために、
やりたくなくなる。

「~するべき」「~はしないべき」
と社会の常識に捉われて、
自分が心底やりたいことも
見えなくなってしまうこともある。

こういう外からの圧力により、
本当にやりたいことが
できなくなってしまうこともある。

もしも、このような
外からのプレッシャーが一切なくなり、
自分の時間やエネルギーが
沢山あり余る状況ならば、
人は誰でも、自分が心底やりたいことを
やるようになるだろう。

人間が怠慢に見えるのは、
怠け心があるからではない。

普段、あまりにも多忙で
単に疲れているから。

時間に余裕もなく、
エネルギーも枯渇しているから。

義務でやりたくないことを
ムリにやらされているから。

常識や周囲の人々の言うことに、
精神的に縛られているから。

これらのことから解放されれば、
人間は自分が心底やりたいことを
どんどんやっていくようになる。

赤ちゃんが自ら歩こうと
一生懸命なのと同じように。

自ら自転車に乗りたくて、
練習する子供と同じように。

やりたいことは
積極的にやるはずだ。