昭和は上下関係が厳しい縦社会。令和は多様性が尊重される横社会

今朝、床の中でウトウトしながら聞いた
ネットラジオトークが興味深かった。
昭和と令和の時代の
価値観の違いについてだ。
それによれば、昭和は優劣をつけて、
上下関係が非常に厳しい社会。
上にいるものは優っていて、
下のものは劣っている。
上にいる人たちが下の人を支配するシステム。
多くの人が上に行きたいと望むから、
一生懸命頑張って、競争が激しい社会だ。

それに対して、
令和は上下関係の社会ではない。
どれが良くて、どれが悪くて、
どれが優っていて、どれが劣っている
という考え方は尊重されない。
それよりも、多種多様を重要視して、
個人が自分の大切とすることを
他人に邪魔されることなく追求できる社会だ。
あなたと私と全く違うことをやっていても、
それはそれでよい。
あなたのやっていることもステキ。
私のやっていることもステキ。
どちらが優っているとか、劣っているとか、
上下関係は全くない世界だ。

この話を聞いた時、
私の頭に浮かんだのは、実父の思考パターンだ。
父はどんなことにおいても、
優劣をつけるのが好きな人だ。
比較する必要のないことでも、
多くのことにおいて、優劣をつけたがる。
なぜ、そんな思考パターンなのだろうか?
と私は不思議に思っていた。

例えば、音楽に関して。
ある日、私と父が車の中でどの曲をかけようか?
と話していた時に、父はこう言った。
「絶対に演歌だよ。演歌ほど優れた音楽はない!
ポップスのような低俗な音楽を聴いたって、しょうがないよ。
演歌ほど素晴らしく優れたものはないね」と。
父は個人的に演歌の大ファンだ。
それに対して、私は演歌は嫌いで、ポップスがお気に入り。
この時、父が音楽のジャンルに優劣をつけるのを聞き、
私はちょっと不快な気分になった。

音楽って、いろいろなジャンルがある。
ポップスとか、ロックとか、
クラッシックとか、ラテンとか…
どんな音楽が好きなのか、
個人の好みもあるけれど、
どのジャンルの音楽でも、
それぞれ良さがあって、ファンがいる。
だから、良い、悪い、優っている、劣っている
という考え方自体、オカシナことだと思った。

また、別の件では、国について。
父は、私の住むニュージーランドについて、
悪い所ばかりが目につくようだった。
「建築物の素材が安っぽくて、イマイチだ」、
「宅地造成がきちんとされていない」、
「キッチンシステムがなってない」、
「お粗末な鉄道」等々、
「日本と比べて、ニュージーランドは劣っている!」
とニュージーランドを馬鹿にした口調だ。
日本の方が上で、
ニュージーランドは下という言い方をした。

もちろん、ニュージーランドは
日本に劣る点は沢山ある。
しかし、日本より優れている点も沢山ある。
どちらが上とか下とか、優劣をつけることはオカシイ。
両国とも良い点もあり、悪い点もある。
お互いの良い点を学び合って、
それを自国に活かしてゆくのが一番よいのでは?
と私は心の中で思っていた。

音楽とか、国とかは、単なる一例だ。
父は多くのことにおいて、
どれが優っていて、どれが劣っていて、
と優劣や上下関係をつける考え方しかしない。
私は、父のそういう思考パターンが大嫌いで、
父が物事に優劣をつけるたびに、
嫌な気分になっていた。

以前は、父の思考パターンが不可解だったが、
今朝のトークを聞いて、妙に納得できた。
「父は単にガチガチの昭和人間なんだ。
だから、上下関係が重要で、
上とか下とかでないと考えられないんだ」
と肯くことができた。

まあ、父の価値観を否定したところで、
何も始まらない。
そういう価値観でも、それはそれでよし。
私個人は、令和の多様性のほうが
よっぽど魅力的に感じられる。

確かに、今流行りのユーチューブを見ても、
多様性の世界は既に始まっている。
以前はテレビ局、ラジオ局、出版業界などからしか、
世界に向けて情報発信できなかった。
でも、今では個人が自由に簡単に、
ユーチューブで情報発信できる。
発信する内容も人それぞれ色々であり、
とても興味深く思える。
自分と似たような興味を追求する
オンラインベースのコミュニティーも盛んになってきて、
本当に個人が多極化してきたと実感している。

昔は、皆がこういう風にする、というものがあれば、
自分はそれが好きでなくても、
皆に従って同じことをやっていた。
もし、大勢多数から外れることをすれば、
後ろ指さされて、非難されることもあった。

しかし、今ではそういう風潮も薄らいできた。
自分が自分の好きなように、
興味深いと思うことを追求できる。
隣の人と全く同じでなくてもよい。
皆がやっていることに従わなくても、
それはそれでよい、と個人が尊重されるようになった。
こういう風潮は、私にとっては素晴らしく思える。
今後の令和の世界でも、この傾向がより強まってゆき、
個人が自分の価値観を大切にしながら、
全く違う価値観を持つ隣の人とも、
平和に共存できる時代が来るのだろう。
そう思ったら、とてもワクワクしてきた。

けっきょくは、どの価値観が良い、悪いと
考える必要などない。
父は父の「上下関係」の価値観を大切にすればよい。
私は父のような「すべてを比較して
優劣をつける」思考パターンは嫌い。
それよりも、個人が自分の好きを追求して、
お互いが違うことをやっていても、
お互いを尊重する横社会的な考え方が好き。
父の考え方も「それもありね」と軽く受け、
私は私の価値観を大切にすればよい。
同じような考え方や価値観を持つ必要はない。

とりとめのない話になってしまったが、
今朝、私が床の中でラジオトークを聞きながら、
なんとなく頭の中で考えていたことをお話してみた。