日本人であっても、日本人である前に、私は単なる一個人

首都ウェリントンの街中の公園で、
ベンチに座って日光浴していたら、
とある環境・自然保護団体の二人組が
私の傍までやってきて、
「あなた日本人でしょ。捕鯨について
話したいんだけど」と言ってきた。

私は捕鯨の賛成派でも反対派でもない。
正直なところ、捕鯨について知識がない上、
私の関心事ではない。
その旨伝えたところ、
すんなり去ってくれたけど、
日本人の私と話し合いができなくて、
残念そうな顔をしていた。
おそらく彼らは、私が日本人だから、
日本政府の捕鯨方針と
全く同じ意見を持っている
と勝手に想像したのだろう。

外国に住んでいると、
日本人として自分は少数派なので、
日本人の代表のように思う人がいるが、
日本人である前に、私は単なる一個人だ。
日本国内でも、政府のある方針に
賛成する人もいれば、反対する人もいる。
それと同じで、外国に住む日本人も、
日本政府のある方針に賛成することもあれば、
反対することもある。
日本人であっても、日本政府と全く同じに
考えるわけではない。

「捕鯨問題にはあまり関心がない」と言えば、
「あなたは政府の方針に無関心なのね」と
ネガティブな捉え方をする人もいる。
でも、これもちょっと違うのではと思う。

なぜ、捕鯨問題に無関心なのかは、
私個人にとっては、捕鯨問題よりも、
もっと自分にとって考えたい問題が
山ほどあるからだ。
今まで自分の生活において、
色々心配することがあったり、
考えたいことがあったりして、
捕鯨問題を考えるまで、
心の余裕がないというのが本音だ。

世の中には色々な人がいるけれど、
それぞれ、興味関心のある分野が違う。
自分の興味関心のある分野では、
色々なことを知っているけれど、
それ以外のことは、
あまり見えていない人も多い。
それは、誰でも同じだろう。
私の関心事は捕鯨問題ではないから、
捕鯨について知識があまりなくても、
ネガティブに捉えて欲しくない。

日本人の多くがこうする、こう考える
という「傾向」みたいなものはあっても、
すべての日本人はこうする、こう考える
というものはない。
同じ日本人でも、皆、考え方は違う。
だから、日本人だと言い、
一括りにすることはできない。
仮に、ある事柄について
日本人の95パーセントが
「これは正しい」と考えても、
私も日本人だから、同じように思うか?
と言えば、そうとも限らない。

私の夫はニュージーランド人だ。
実は、夫の両親は、
日本に対して、好印象を持っていない。
戦争を経験した世代なので、
戦争時に日本軍のしたことが許せず、
そのため、日本を嫌っているのだろう。

でも、「彼らは偉い」と私が感じたのは、
日本人の私に対して、決して嫌な顔を見せたり、
失礼なことを言ったりしたことはない。
日本のことは嫌いでも、
日本人の私と日本国を同一視せず、
私を単なる一個人として扱ってくれている。
私達夫婦が結婚を決めた時にも、
義理両親は、私が日本人であるからと言い、
私達の結婚に反対することはなかった。
それどころか、祝福してくれた。
結婚後、私に対しても、義理両親は
すごく良くしてくれている。

私の住む地域には外国出身の人が多い。
私のご近所さんは、ベトナム、カンボジア、
フィリピン、ロシア、ドイツからの人たちだ。
こういう近所の人たちにディナーに招かれた時、
色々な国の食事に触れられて、楽しいと思う。
食べ物とか、文化的なしきたりが
皆違うなと思っても、
この人はベトナム人だから、
あの人はカンボジア人だから、
と国が違うと意識することはあまりない。
それよりも、出身国はどこであれ、
皆、単に一人の人間に過ぎない。

ある国の出身だから、その国に属していて、
その国の人々の多くがすることや
考えることを、
その人もしたり、考えたりするわけではない。
皆、それぞれ、違う意見を持つ
単なる一個人に過ぎない。

私は未だに日本のパスポートを持っているので、
厳密に言えば、法的には日本人だ。
日本で生まれて、成人するまで日本に住んだ。
日本は私にとって大切な国だけど、
だからと言って、私は日本に属している
という考え方は好きではない。
それよりも、私は地球に属している「地球人」
という言い方のほうが、
私にとってはしっくりくる。