私がニュージーランド人の夫に
感謝していて、有難いと感じることがある。
「ニュージーランド人」という言葉を
タイトルに入れたが、
「ニュージーランド人は~である」とか、
「日本人は~だ」というような
ステレオタイプ的な決めつけ
をするつもりは全くない。
単に私個人の話として、聞いて頂ければ、幸いだ。
私と夫の意見が違う時にでも、
夫は、私の意見を尊重してくれる。
たとえ、私たちの考え方が相反するものでも、
「まあ、そういう考え方もありね」と
私の意見を否定することなく、受け止めてくれる。
そういう点に、私はとても感謝している。
私と夫の考え方が違っても、
夫は自分の考えを変えたり、曲げることはない。
自分の意見や考え方を大切にしている。
それと同時に、私の違った考え方も
「良し」として聞いてくれて、尊重してくれる。
自分と同じように考えられないからと言って、
感情的になったり、怒ったりはしない。
また、私のことを責めたり、非難したりすることもない。
考え方や意見の違いに対しても
サラリとしているので、
意見の違いで言い争いになったり、
人間関係がオカシクなることはない。
そんなわけで、
私は自分の思っていることを
正直に話すことができている。
そういう点で、夫を尊敬できるし、
有難いと感じている。
自分の意見を自由に表現できる国では、
そんなことは当たり前のように思える。
でも、私にとっては、
それが当たり前になったのは
日本の実家を離れてからだ。
私は成人するまで、
日本で実の両親と暮らしていた。
私の実家は「男尊女卑」や「年功序列」
の考え方が色濃い家庭だった。
当時、子供であり、同時に女であった私は、
一番劣った存在だとされて、
自分の意見を自由に表現することを
許されていなかった。
常に父が権力を握っていて、
父の言うことは絶対に正しかった。
父と同じ考えや意見を述べれば、
別に何も問題は起きなかったが、
私が少しでも父と違ったことを言えば、
「女、子供は黙れ!」とスゴイ権幕で
怒鳴り散らされ、ビンタが飛んできた。
父は自分の考えることは常に正しく、
それ以外は「間違いだ」と信じていた。
物事を「正しい」か「正しくない」、
「白」か「黒」、「ゼロ」か「百」
といった二択でしか考えられない人だった。
多種多様なやり方や考え方を
受け入れることができずに、
器がとても小さな人間だった。
私は言いたいことがあっても、
これを言ったら、父はどう反応するか?
それが怖くて、常にビクビクしながら
ほとんど何も言えずにいた。
どんなに苦しくても、辛くても、
これは違うと思っていても、
異議を申し立てることはなく、
ニコニコするように躾けられてきた。
強い反発心が私の中に芽生えて、
それが徐々に大きくなり、
黒くて重たくザラザラとした
イガイガのように感じられた。
こんな家庭環境下に
成人するまでいたので、
自分の夫が、違う意見を持つ私を
怒ることなく、尊重してくれるのを見て、
私はとても感激して、
感謝の気持ちでいっぱいになった。
夫は子供たちに対しても、
彼らの意見や考え方を尊重している。
よほど外れた反社会的なこと以外は、
子供がどう考えようと、何をしようと
彼らの自由にさせている。
子供たちが小さな頃、
私と夫は子供たちの教育方針で
意見が違ったことがあった。
こういう時、両親揃って子供たちに対して、
同じ方針を示すべきだと考える人もいる。
でも、夫はそうではなかった。
彼が子供たちに言ったことは、
「僕は~だと思うんだ。でもね、
ママは違う意見を持っている。
人間は皆、考え方や意見が違って当然だから、
それでいいと思うんだ。
君たちがどうしたいかは、
君たち自身で決めればいいよ」と。
考え方が違うからと言って、
子供たちに対して、怒ったり、
感情的になったりすることもない。
色々なテーマで
息子とディベートをしている
夫の姿を見れば、
「素晴らしい人だな」と私は感じる。
夫がとてもカッコよくさえ見えてくる。
多種多様を受け入れられる夫と
一緒に生活することができて、
「私は本当にラッキーだな」
と感謝の気持ちでいっぱいだ。
私の夫はニュージーランド人。
ニュージーランド人すべてが
私の夫のようであり、
私の両親の世代である日本人すべてが
私の父のようである、
と言いたいわけではないので、
誤解しないで頂きたい。