「自信」は主に次の2つに分けられる。
「自己有能感」と「自己肯定感」。
同じ「自信」でも、幸福感を考える時、
両者には大きな違いがある。
今日は、自信と幸福感の関係を
考えてみたい。
「自己有能感」とは、
人より勉強ができる、
人よりスポーツができる、
人より仕事ができる、
立派な学歴がある、
立派な会社に勤めている、などのように、
他人と自分を比較して、
自分の方が勝っていると思う時に感じる自信。
自分の優越性を周囲が評価してくれるから、
自分自身に自信がつくというもの。
それに対して、「自己肯定感」は
私はできることもあるけれど、
できないこともある。
失敗して凹むこともあるけれど、
いつも、なんとかなっている。
不完全な自分であるけれど、
自分の良い面も悪い面も
両方受け入れられる。
というように、自分のありのままの
存在そのものを肯定できる自信のことだ。
自己有能感を高めるために努力すれば、
自分の能力やスキルは向上する。
能力、スキルが改善されること自体は素晴らしい。
でも、その頑張りのエネルギーの出所が、
「他人に評価されたいため」で、
この気持ちが極度に強くなれば、
不健全になり、不幸を招くこともある。
今までの人生の長い間、
私の中には常に不足感があった。
その不足感は、「私はAができない」
ことから来るものだ、と信じていた。
もし、Aができるようになれば、
私は幸せになるに違いない、と信じて
Aができるようになるため頑張った。
Aができるようになった時、
一瞬、喜びを感じた。
しかし、その喜びは長続きしなかった。
Aができるようになっても、
私は幸せになれたとは思えない。
暫くして、「私はBができないから
幸せではないんだ。もし、Bが
できるようになれば、幸せになれる」と思い、
今度はBをマスターする目標に向かって
頑張り出した。
Bをマスターできた時点で、
私は一瞬の喜びを感じた。
しかし、Bをマスターしても
幸せになれるということはなく、
私は更なる新しい課題Cに
向かって走り出すことになった。
こんな感じで、次から次へと
新しいことをマスターできれば、
自分は幸せになるに違いないと思い込み、
色々なことに挑戦してきたと思う。
確かに、今までできなかったことが
できるようになれば、自信はある程度つく。
でも、それにより、自分がより
幸せな気持ちになったかと言えば、
そんなことは全くなかった。
次から次へと色々やらないと
気が済まない私。
やったところで、一瞬の満足感はあるが、
すぐにまた不足感を感じて、
それを埋めなければ幸せになれないと思った。
なぜ、自分はこうなんだろう?
と悩んだ時期もある。
色々考えた結果、
自分なりに行き着いたのは
「私は親から認められたかった」ということ。
親から承認されたくて、
色んなことを次から次へと
頑張ってきたのだと分かった。
私は両親から褒められたことがあまりない。
子供の頃から、何をやっても上手くできなかった。
おまけに、小学校高学年では
メンタルを酷く病み、
普通の生活ができない時期もあった。
親は呆れ返って、「あ~、どうして、
こんな子供を授かってしまったのか」
と私のことを嘆いていたようだ。
学生時代に、特定の教科だけは
割と良い成績が取れたので、
そのときだけは親が褒めてくれた。
でも、それ以外のすべての面で
母親からは「ダメ、ダメ、ダメ」と言われ、
私は人格否定までされた。
そういう親からでも、認められたい
という気持ちが私の中にあり、
「~できるようになれば褒めて貰えるかも」
と勘違いして、色々なことに挑戦して
頑張ってきたのだろう。
でも、人生のある時点で、私は気づいた。
私の今までの頑張りは自己有能感を
高めるため。それは、親に自分のことを
承認して貰いたかったから。
でも、実際に親は私を褒めてくれただろうか?
そんなことはなかった。
こんなことをやっていても、
自分は幸せにはなれないと分かったのだ。
今年18歳になる、私の息子アレックスのこと。
アレックスは小さな頃から、
根拠のない自信に満ち溢れていた。
スポーツができるわけでもないし、
勉強ができるわけでもない。
どちらかと言えば、身体も鈍くて、
算数は同年代の子供よりも遅れていた。
「お家でちょっと指導してあげてください」
と担任教師に言われたほどだ。
そんなアレックスが、なぜ、いつも
自信満々で、自分に対して自己肯定感が
強かったのかは分からない。
親の私はとても不思議に感じていた。
今でも、なぜ、彼がそうなのか?
よく分からない部分も多い。
でも、自己肯定感が強いと、活き活きしている
と傍から見て感じた。
常に楽しそうで、活き活きしていて、
自分の興味があることに専念している。
アレックスには、誰かに認めて貰うための
頑張りとかはないようだ。
それよりも、自分が楽しいと思うことに
のめり込み、それを楽しんでいる。
幸せそのものだ。
息子と自分のケースを考えると、よく分かる。
自己有能感を求めすぎると不健康になる。
自己有能感を高めるためだけに
惜しむことなく努力を続ければ、
メンタルを病んでしまう危険もあるだろう。
結果的には、頑張った末、
今までよりも、スキルや能力を伸ばせた
という点では素晴らしくても、
その素晴らしいものをゲットしても、
本人は幸福にはなっていない。
自己有能感が極度に大きければ、
不幸になることもあるだろう。
「自己有能感」と「自己肯定感」の
大きな違いは、
「自己有能感」が他人からの評価
に基づいているのに対して、
「自己肯定感」は自分自身の評価に
基づいている点だ。
「幸福」の定義は人それぞれ違う。
でも、確実に言えることは、
「自分を肯定できなければ、
決して幸せになることはない」
ということだ。
自己有能感が強すぎれば、
周囲から認められたいがために頑張る。
自分の人生の主体者が「他人」や
「世間」になってしまう危険がある。
そうなれば、自分を生きるというよりも、
他人が良しとする人生を生きることになる。
自分の頑張りが、他人の評価だけに
かかっていれば、自分の幸せは不安定になる。
他人が高く評価してくれた時だけ、
自分は幸せ。でも、そうでない時には
不満で不幸ということになる。
幸せになるためには、
自分を肯定できなければ難しいだろう。
自分の良いところは受け入れて、
悪いところ、気に入らないところには
蓋をして見ないようにすれば、
自己否定をしているのと変わりない。
そんなことでは、幸福感は得られない。
自分の良い面も、悪い面も
すべてをひっくるめて、
今の自分のままでいいんだよ、
と自分を肯定できるようになれば、
他人の評価が何であろうと、
自分の中で揺るぎない自信が生まれて、
幸福になれるのだろう。
今まで自分がやってきた、
自己有能感を高めて自信をつけよう
というやり方は、間違いだった
と感じているところだ。
親に認めて貰おうなんていう気持ちは捨て、
自分が自分を認めて上げなければ、
いつまで経っても幸福感は得られないと分かった。