人間は本来、善なのか? それとも、悪なのか? どちらが正しい?

そもそも人間は善なのだろうか?
それとも、悪なのだろうか?

「性善説」が正しいか?
「性悪説」が正しいかで、
ディベートクラブの学生が
議論するのを聞いた。

性善説は、
人間の本性は基本的に善である
という考え方。

性悪説はその逆で、
「人の性は悪なり。
その善なるものは偽なり」と説くもの。

性善説をサポートする学生によれば、
人間はもともと愛に溢れており、
善悪を分別する心があり、
道徳心を持って生きている。

困った人を見れば、助けてあげる。
皆が幸せに生きれるよう、
積極的に善い行いをすると説く。

それに対して、
性悪説を主張する学生は、
人間は欲望にまみれた存在。
エゴの塊であり、
自己の利益追求のため、
平気で他人を蹴落とす。

自己中心に世界が回っており、
心底では
自分さえ良ければいいと思っている。
そんな愚かな存在が人間だと言う。

ディベートクラブの学生は
日頃のトレーニングのお陰で、
かなり説得力を持ち、
最もだと信じることを堂々とスピーチする。

ロジカルシンキングに優れており、
どちらの側の言い分を聞いても、
「本当にその通りだ」と肯くことができた。

学生の話術にはとても感心できた。
しかし、そもそも
このディスカッションは意味があるのか?
私は疑う気持ちが大きかった。

人間は本来、善であると言う学生も、
人間はそもそも悪だと主張する学生も、
両者とも正しいのではないか?

なぜなら、
人間には両方の要素があるから。
善の部分もあれば、
悪の部分もあるからだ。

どんな人間でも、
善の要素と悪の要素を
両方持ち合わせている。

どのような環境下で生きるのかで
善の部分が沢山活かされたり、
逆に悪の方が強く出てしまったりする。

性善説が正しいのか?
性悪説が正しいのか?
どちらが正解なのか?と考えること自体
ナンセンスなのではないか?

私たちの住む世界は、
相反する2極の対が沢山存在する。

光と闇、ポジティブとネガティブ、
善と悪、白と黒、成功と失敗、
明るいと暗い、優と劣などなど。

私たちは、生活の様々な場面で、
この2極のどちらか一方だけを選んだり、
正しいと決めることが多い。

資本主義が正解なのか?
社会主義が正解なのか?

福祉国家は良いのか、悪いのか?

ワクチン接種をするべきなのか、
しないべきなのか?

ロックダウンするのは正しいのか、
間違っているのか? などなど。

正しいのか、間違っているのか、
良いのか、悪いのか、
で言い争ったり、戦ったりする。

しかし、現実的には、
良いことだけしかない、
悪いことだけしかない、
とはっきり言い切れるものは、
ほとんどない。

良いことだけしかない選択もなく、
悪いことだけしかない選択もない。

今の状況では、こちらの方が、
良いことが多いだろう、
というものはあっても、
状況が変われば、
そうではなくなることもある。

ほとんどのことは、
良い悪いのどちらかではない。
正しい間違っているの
どちらかでもない。

「良い」と「悪い」の間のどこか、
「正しい」と「間違っている」の間のどこか、
2極の間のグラデーションの中に
ほとんどすべてのものが存在する。

グラデーションのどこなのか?
その位置も、その時々で変わる。

ほとんどすべてのことが
グラデーションのどこかに位置するのに、
2極のどちらかを選らばなければいけない
と思うから、問題が出てくるのだろう。

例えば、病気で薬を飲む場合。
ある薬は病気の症状を緩和して、
ラクにしてくれるものだ。

確かに、病気の症状で苦しむことを
軽減してくれる点では優れた薬だ。

しかし、
病気の症状を緩和する点では有効でも、
副作用が強く出ることもしばしばある。

病気の症状は緩和されても、
別のことで
身体に不快な症状が出てくる。

こういう状態で、
この薬は良薬なのか否か?
議論すること自体、無意味だ。

役に立つ部分もあれば、
悪い影響を与える部分もある。

病気の症状の軽減の大きさと、
薬による副作用の大きさを
両方天秤にかけてみて、
どちらが大きいかで、
薬を服用するのか否か決めるとよい。

服用する人それぞれが
同じ薬を飲んだとしても、
全く違う反応を経験するだろう。

要するに、これは良い薬か悪い薬か
どちらか一方に決めること自体
適切ではない。

2極の対になるものの、
どちらか一方だけを
良しとするやり方は、
あまり適切な考え方ではない。

なぜなら、多くのことが
相反する2極の
両方の要素を持っているから。

人によっても、状況によっても、
その時々によっても、
変わってくるからだ。

どちらか一方でない時に、
どちらか一方を選ぼうとすれば、
メンタルを病んでしまうこともある。

例えば、プロジェクトを終えた時、
「これは失敗に終わった」
と嘆くかもしれない。

しかし、最終的には「失敗」
と悪い評価を下されても、
そのプロセス中には
絶対に良いこともあったはずだ。

この部分をやった時には、
すべてが上手く行き、順調だった。
そんなことも多々ある。

思うようには行かなかったが、
試行錯誤をするうちに、
より良いやり方を発見した
という場合もある。

それなら、その部分は「成功した」
と言ってもよいだろう。

全体的に見て、「失敗」でも、
100パーセントの失敗ではない。

少なからず、良い部分もあったのだから、
「失敗」か「成功」のどちらかで
判断することは、妥当ではない。

現実的には、ほとんどすべてのことが
相反する2極の間のどこかにある。
その時々でも、
いる位置が変わったりする。

今までは正しい側に近かったのに、
状況が変わった後には、
間違っている側に傾くことも
普通に起きることだ。

良いのか、悪いのか、
正しいのか、間違っているのか、
どちらか一方だけで判断する癖は
現実社会では、あまり役立たない。

白黒だけで判断すれば、
心の柔軟性も失われて、
メンタルを病む原因にもなる。

物事は、良い面もあり、悪い面もあり、
両方の要素が常に存在している。

白か黒かではなく、
グレーゾーンにいることが
ほとんどすべての場合だ。

どちらか一方だけを
正解とするのではなく、
グレーゾーンにいることを承知することは、
心の柔軟性に繋がる。

時には、どちらか一方だけを
選ばなければいけないこともある。

そんな場合は、
その事柄の良い面と悪い面を
すべて考慮してみることだ。
その上で、良い面のほうが
多くなるオプションを
選択すればよいだろう。

最初の話に戻せば、
人間は基本的には善の部分もある。
それと同時に、悪の部分もある。

両方存在するので、
極度な期待をしないほうがよいし、
極度に失望する必要もない。

良いのか、悪いのかではなく、
良い面もあり、悪い面もあり。
両方あるということが、
本当のところだからだ。