私たちは日々、
良いことがあれば喜び、
悪いことがあれば落ち込みます。
しかし、それは
本当に妥当なことでしょうか?
この記事では、
身の回りの出来事に一喜一憂せず、
より広い視点で
物事を捉えることの大切さについて
考えます。
そうすることで、
現実の見え方も、
未来の可能性も
大きく変わってくるでしょう。
====
私たちは、
さまざまな基準をもとに
物事を判断しがちです。
たとえば、背が高いか低いか、
頭が良いかそうでないか、
成功か失敗かといったように、
何かと区分けをすることがあるでしょう。
しかし、これらの判断は、
あくまで「ある基準との比較」
にすぎません。
身長2メートルの人を見て
「大きい」と感じるのは、
普段の基準が
170センチメートル前後にあるからです。
もし比較対象を
アフリカゾウに変えたら、
2メートルの人は
決して「大きい」とは言えません。
そして「ゾウこそが大きい」
と思ったとしても、
シロナガスクジラと比べれば、
アフリカゾウでさえ「小さい」存在です。
このように、
「大きい」「小さい」という判断は、
比較対象を変えるだけで
簡単に覆ってしまうのです。
私たちの判断には、
こうした相対的な性質があります。
しかし、
多くの人はそのことに気づかず、
「自分の考えは絶対に正しい」
と思い込んでしまいがちです。
意見の対立が生じたときも、
「自分のほうが正しい」
「相手の考えは間違っている」
と決めつけてしまうことがあるでしょう。
実際には、
それぞれが異なる基準を
前提にしているために、
意見が食い違うことが多いのです。
このことに気づけば、
もっと柔軟な考え方ができ、
心に余裕をもって
生きられるようになるでしょう。
ここでは、
相対的な視点を超えて、
より広い視野で世界を見る考え方を
「大いなる視点」と呼んでみます。
この「大いなる視点」を意識することで、
今「これは最悪だ」と思っている出来事も、
実は将来の大きな転機となる可能性を
秘めていることに気づけるでしょう。
====
「大いなる視点」とは、
目の前の出来事を単に「良い・悪い」
と判断するのではなく、
より長い時間軸で
全体を見渡そうとする発想です。
視点を広げることで、
「最悪だ」と感じた出来事も、
やがて「いや、
あのときの経験があったからこそ、
今がある」
と思える日が来るかもしれません。
古い寓話に、サルの群れにエサを与える
飼育員の話があります。
サルたちは
毎日7つのエサをもらいますが、
「朝に3つ、夕方に4つ」と言われると怒り、
「朝に4つ、夕方に3つ」と言われると喜びます。
実際の数は変わらないのに、
目先の「朝にもらえる量」だけを基準にして、
一喜一憂してしまうのです。
これは決して
サルだけの話ではありません。
私たちもまた、
少し条件が変わるだけで、大喜びしたり、
絶望に近い落ち込みを
感じたりしてしまいます。
それほど「目の前の状況」に
振り回されがちなのです。
たとえば、志望校に合格すれば
「やった!」と喜び、
不合格になれば「残念だ」
と落ち込むでしょう。
感情が揺れるのは自然なことですが、
もし「合格=絶対によいこと」
「不合格=絶対に悪いこと」
と決めつけてしまうと、
そこにあるかもしれない
新たな道や思わぬ転機を
見逃してしまうかもしれません。
実際、「不合格をきっかけに
新しい選択肢を探し始め、
結果的に自分にぴったり合った道を見つけた」
という話は珍しくありませんし、
能力に自信が持てなかったからこそ、
人一倍努力し、
高い技術を身につけた人も多くいます。
私自身も、かつて「最悪だ」と思っていた
日本の実家での生活が、
後になって「これで良かった」
と思える経験をしています。
当時の私は居場所を感じられず、
つらい日々が続いていましたが、
それがむしろ
外へ飛び出す原動力となったのです。
今ではニュージーランドの大自然に囲まれ、
優しい家族に恵まれて
幸せに暮らしています。
もし当時、
「この状況はどうしようもなく最悪だ」
と嘆くだけで終わっていたら、
今の環境に
たどり着くことはなかったでしょう。
====
私たちは「失敗」と聞くと、
つい「悪いことだ」と判断しがちです。
試験に合格できなかった、
目標に届かなかった、
仕事でミスをした——
そんな出来事があると、
「すべてがダメになった」
「ここから先は下降するばかりだ」
と思い込んでしまうこともあるでしょう。
しかし、
そうした「失敗」と見える経験が、
未来の可能性をひらく大きな転機になることは
決して珍しくありません。
たとえば、
子どもの成績がふるわないと、
親は「このままでは将来が心配だ」
と不安になるかもしれません。
しかし、その経験をきっかけに
子どもが新たな才能を見つけ、
それを伸ばして
大きく成長することもあります。
「成績が悪い=絶対に悪い」
と決めつけてしまえば、
そうした可能性に
気づくことはできないでしょう。
失敗をきっかけに転機を迎えた事例は、
成功者のエピソードを見ても
数多くあります。
たとえば、
スポーツ選手の中には、怪我で
一度競技を離れざるを得なかったものの、
そのリハビリの過程で
新たなトレーニング法を身につけ、
以前よりも
成績を伸ばしたという人もいます。
これはスポーツに限らず、
仕事や勉強、人間関係など、
あらゆる場面で起こり得ることです。
うまくいかなかったからこそ、
それまで気づかなかった方向へと意識が向き、
新たな道が開けるのかもしれません。
====
こうした話を聞いてもなお、
「いや、それでも不合格は悪いことだろう」
「嫌な出来事なのだから、悪いものは悪い」
と考える人は多いでしょう。
それも無理のないことで、
人は誰しも
「自分の感覚や価値観が正しい」
と信じ込む傾向があります。
そして、その思いが強いほど、
「他の考え方はおかしい」
「間違っている」
と決めつけてしまいがちです。
こうした頑なな姿勢が強まると、
他者との対立や衝突を
招きやすくなるでしょう。
「この人が悪いから、
こんな問題が起きたのだ」
と断定してしまうとき、
私たちは往々にして、
自分がどのような基準で物事を見ているかを
振り返ることがありません。
しかし、別の視点から見れば
「問題」と思っていたことが
大したことではなかったり、
むしろ長期的に
プラスに働いたりすることもあるのです。
大切なのは、
自分が抱く「常識」や「価値観」が
どのように形成されてきたのかを
自覚することです。
家族や学校、職場で
長年言われてきたこと、
自分の成功体験や失敗体験を通じて
無意識に学んだ基準が、
今の物の見方に
大きな影響を与えているからです。
しかし、自分の常識や価値観が、
どこでも誰にでも
当てはまるわけではありません。
それを「当たり前」と思うかどうかで、
人との関わり方や
出来事の受け止め方は
大きく変わってくるでしょう。
====
では、「大いなる視点」で物事を見るには
どうすればよいのでしょうか?
まずは、「自分が今、
どのような基準で判断しているのか」
を意識することが第一歩です。
もし「これは絶対に悪いことだ」
「もう人生は終わった」と思い込んでいるなら、
「本当にそうだろうか?」
「もしかすると別の見方があるかもしれない」と、
自分自身に問いかけてみるとよいです。
その問いかけによって
「絶対に悪い」という思い込みを
少し緩めることができるかもしれません。
こうした「問いかけ」は、
他の人と意見がぶつかったときにも
役立ちます。
誰かの考えにイライラして
「どうしてわからないんだ」と感じたとき、
「この人はどんな基準や常識に基づいて、
そう考えているのだろう?」
と問いを挟んでみるのです。
そうすることで、
頭ごなしに否定するのではなく、
まずは話を聞いてみようという気持ちが
生まれるかもしれません。
その姿勢があれば、
対立が激化するのを防ぎ、
話し合いを通じて
新たな視点を発見したり、
思わぬアイデアが生まれたりする可能性も
広がるでしょう。
====
この記事では、
日々の出来事に一喜一憂せず、
より広い視点で物事を捉えることの大切さ
について考えてきました。
何かを「良い」「悪い」と判断する基準は、
実は絶対的なものではなく、
私たちの置かれた状況や価値観によって
大きく変わるものです。
視点を変えることで、
これまで「最悪だ」と思っていたことが、
新たな可能性を生み出す転機になることも
あるでしょう。
「大いなる視点」を持つことで、
私たちは目の前の出来事に
振り回されることなく、
より柔軟に未来を見つめることができます。
たとえ望まない結果になったとしても、
それが別の道を開くきっかけ
となることもありますし、
時間が経てば「むしろ良かった」
と思えることも少なくありません。
失敗に見えることや、
思い通りにいかない状況も、
見方を変えれば
価値のある経験へと変わり得るのです。
また、自分の価値観が
どのように形成されてきたのかを
意識することで、
他者との意見の違いを
受け入れやすくなります。
「自分の常識は絶対に正しい」
と思い込んでしまうと、
対立や誤解が生まれやすくなりますが、
「相手の視点はどこから来ているのだろう?」
と問いかけることで、
より建設的なコミュニケーションが
生まれるでしょう。
人生は
思いがけない展開の連続です。
今の出来事に対して
即座に「良い」「悪い」と判断するのではなく、
一歩引いて、少し長い目で、
広い視野で捉えてみることで、
新しい可能性が開けてくるでしょう。