今回の話は
「べき思考」を手放せば、
自分も気分がラクになり
幸せに生きられるようになるし、
他人との人間関係も改善され、
良いことづくめだという話。
「べき思考」とは、
男は弱気を吐くべきではない
とか、
女性はおしとやかで
上品に振る舞うべき
とか、
年上の人を敬うべき
とか、
会社の忘年会には
絶対に参加するべき
とか、
結婚したら子供を作るべき
とか、
年上なら我慢するべき
とか、
上司はこうあるべき
とか、
例を挙げればきりがない。
自分は当然だと思っているが、
冷静に考えれば、
そうでないことも多い。
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「べき思考」はいったい
どこから来たのだろうか?
それは、幼少期に
親や学校の教師の言動に
大きく影響されて、
その人の中に徐々に形成されたもの。
子供の頃に親から
「人には親切にしなければ
いけませんよ」と聞いて育てば、
困っている人を見た時には
親切にするべきという信念が
自分の中にでき上がる。
「男の子なんだから、
泣いたらみっともないでしょ」
と言われ続ければ、
「男は苦しくても
弱音を吐くべきではない」
という思い込みをするようになる。
親や学校の教師は
同じようなことを
何度も何度も繰り返して
子供に言っている。
そんな大人の言葉を
幾度も聞いているうちに、
子供は「それが正しいこと」と信じ込み、
そのまま、自分も
同じように考えるようになる。
「~すべき」が一旦
その人の中に強く根付けば、
「絶対的に正しいことだ」と捉え、
その信念に基づいて
日々の行動をするようになる。
一旦、固定観念となれば、
それが本当に正しいことなのか?
適切なことなのか?
疑うことを一切せずに、
そのまま受け入れている。
ある思い込みが
自分の中に定着すれば、
そのことに対して思考停止して、
何も考えなくなる。
そうあるべきことは
当たり前のことなので、
絶対にそうしなければいけない
とまで信じ込んでいる。
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どんな親のもとで
どんな家庭環境で育ったかで
「~するべき」の内容は
人それぞれ違うものだ。
自分にとっては
それが真実のように思える。
しかし、「~するべき」は
身近な人の影響を受けて、
単に自分が作ったルールにすぎない。
世の中の
絶対的なルールでも、法則でもない。
「べき思考」が問題なのは、
自分に不必要なプレッシャーを与え、
自分を縛り付けて
苦しめることが多いこと。
自分が決めたルールに従えなければ、
「これができない自分は恥ずかしい」
「自分はダメな人間だ」
「~でない自分は惨めである」
と考えて、自分責めをして
自分自身を虐めることになる。
「~するべき」、「こうあるべき」
を他者にも向ければ、
自分だけでなく、他人をも苦しめ、
人間関係の悩みに発展する。
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自分の中にある固定観念は
自分にとっては
絶対的に正しいこと。
しかし、それは本当に
何時でも、何処でも、誰にでも
正しいことなのだろうか?
これは私が経験したことだ。
私が子供の頃、日本の実家では
「男は家事をするべきではない」
という考えが蔓延っていた。
食事を作るのも、あと片付けするのも、
掃除するのも、洗濯するのも、
すべて女性である母親の役割だった。
「男は台所に立つべきではない」
と父は固く信じていた。
何らかの事情により、
母が夕食を作れない日があれば、
母は前日に翌日の夕食を準備して、
父が困らないようにしていた。
父がお茶を飲みたくなれば、
「お~い、お茶!」の一言で
母は台所へ飛んで行き、
お茶を入れて運んでくる。
まるで、召使のようだ。
女の子である私は
中学生にもなれば、
家事の手伝いを強制させられた。
どんなに私が嫌がっても、
「女の子だから、
きちんとできるようにならないと!」
と厳しい口調で命令された。
それに対して、弟は
家事の手伝いをさせられることもなく、
母から何でもやって貰い、
男の子として大事に扱われた。
そんな私は
女性は家事ができなければ
いけないと思い込んだ。
正直、私自身
何をやっても不器用で
上手く家事ができなかった。
そんな自分が情けなく感じられ、
「自分はダメな人間だ」
と信じ込んでいた。
実際、母親からも
「こんなに何もできなければ、
嫁の貰い手もない」なんて言われ、
惨めな気持ちになることも多かった。
そんな環境で育ったせいもあり、
「女性は家事をやるべき」
という考えが、すっかり自分の中に
植え付けられていた。
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20代半ばに
私はニュージーランドに留学した。
この時、私は現地人家庭で
3年間ホームステイした。
私のホストファミリー宅は
私の日本の実家とは、
全然違う空気が流れていた。
この家では女性は強い。
「お~い、お茶」と言うのは
男性ではなく、女性のほうだ。
ホストマザーが
「ああ、お茶が飲みたいわね」
と呟けば、
ホストファーザーは
キッチンへ直行して、
お湯を沸かし、お茶を入れて、
ビスケットと一緒にお茶を運んでくる。
「ありがと、ダーリン」と言われて、
ホストファーザーは
ニコリと笑顔を見せる。
「奥さんが喜んでくれれば、
僕は嬉しいことこの上なし」
という感じだ。
このファミリーでは
毎晩夕食を料理するのも
ホストファーザーの役割だ。
実際、ホストファーザーは
料理の天才と言えるほど
美味しい料理を作れる。
ホストマザーは
料理の仕方が分からない。
実際にやったことも
ほとんどなく、
料理したいとも思っていないようだ。
旦那さんが作ってくれるから、
全然不自由もない。
料理ができない自分を
ホストマザーは、恥ずかしいなんて
これっぽっちも思っていない。
ホストマザーにとっては、
「男は台所に立つべきではない」
という考えは、どう考えても
信じられないことだ。
料理ができないホストマザーは
そのことを友人や他の家族に
平気で話している。
「できない自分が情けない」
なんて感じる様子も一切ない。
そんなホストマザーの姿を見れば、
日本の実家では当たり前だった
「男は台所に立つべきではない」
はいったい、何だったのだろう?
と不思議に思う。
自分が正しいと
思い込んでいたことでも
ところ変われば、通用しなくなる。
ある国では、これが普通だ
と多くの人が考えることでも、
別の国に行けば、そうではなくなる。
ということは、
何時の時代にも、
何処の場所でも、誰にでも
絶対的に正しいことは
どこにも存在しないのだろう。
絶対的に正しいことがないのなら、
自分を縛り付けて、
苦しめるような「~べき」は
いっそのこと
捨ててしまっても
よいのではないか?
と考えるようになった。
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「~するべき」のすべてが
悪いわけではなくても、
自分を苦しめる「~べき」があれば、
一度立ち止まって、
冷静に考えてもよいだろう。
「これをすることは、
絶対に必要であり、
本当に正しいことなのか?」
自問自答してみることだ。
今まで「~するべき」を思考停止で
そのまま受け入れていても、
よく考えてみれば、
そうではないこともあるだろう。
「~するべき」ことを
することにより、
どんなメリットがあり、
どんなデメリットがあるのか?
客観的に考えてみることだ。
もし、メリットよりも
デメリットのほうが大きければ、
積極的に切り捨ててもよいはずだ。
頭の中で
あれこれ考えるのではなく、
実際に紙とペンを取り出して
書き出してみると役に立つ。
例えば、
「母親は子供の前では
いつも笑顔で振る舞うべき」
という信念があったら、
そうすることで、
何が良いのか、何が悪いのか?
紙に書き出してみる。
確かに、お母さんがニコニコと
笑っていれば、
子供も安心するし、嬉しい。
家庭の雰囲気もすごく心地よく
家族メンバーにも元気を与える。
しかし、ムリをした作り笑顔
の場合はどうだろうか?
子供は大人が考える以上に
洞察力が鋭くて
お母さんは本当は嬉しくない
と簡単に察してしまうものだ。
感情と行動がチグハグだと
傍から見ている人は
嫌な気持ちになったり、
イライラしたりもする。
場合によっては
不信感を与えることもある。
親は子供のお手本だから
子供に対して
「苦しくても我慢してでも
ニコニコしていないとダメ」
という不当な信念を
子供にも植え付けることになる。
そうなれば、
不当な信念が子供にも
受け継がれて行く。
母親がいつもニコニコしていなければ
子供の人生が悪い方向へ
行ってしまうのだろうか?
そんなことはないはずだ。
自分が苦しいと思う「~べき」の
良い点と悪い点を書き出したら
その「べき思考」を続けたほうが
よいのか否かが明らかになる。
メリットよりも、デメリットが
多ければ、
当然、やめたほうが賢明だ。
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もちろん、
今までずっとしてきた「~するべき」
を突然、やめることは容易くない。
自分の一部となった癖を
今すぐ捨てようとしても
簡単には捨てられない。
手放すのには、
時間がかかるだろう。
それでも、少しずつでもよいので
焦らずに、徐々に変化させれば
よいだろう。
最初にできることは、
自分の内なる言葉を変えること。
今までは「~するべき」「こうあるべき」
と自分の中で発していたものを、
「~だったらいいな~」
「~できたらいいな~」と
軽いものに変えてみることだ。
「~するべき」「こうあるべき」
は自分をがんじがらめに
縛り付ける言い方だ。
それに対して、
「~だったらいいな~」
「~できたらいいな~」という言い方は
そうではない。
こうあったら理想的でも、
それが絶対ではないと思える。
すると、自分への縛りもほどけて、
気分がラクになるはずだ。
先ほどの母親の例で言えば
「子供の前で、いつもニコニコ
笑えれば、ステキだな~」
に変えるのだ。
自分の内なる声を
単に少しだけでも変えられれば、
精神的に大分解放される。
そして、そのうち、
「なんだ、今までは
絶対にこれをしなければ
大変なことになる
と思い込んでいたけれど、
実際にやるのをやめても
全然支障がなかったじゃないか」
と分かる。
「~するべき」ということを
やめても、何も問題なかった
なんてことは、幾らでもある。
今までがんじがらめに「~するべき」
と縛られていたものを
手放そうとすれば、
最初の内は、かなり違和感があるはず。
しかし、内なる声を変えて、
徐々に自分を解放してゆけば、
「な~んだ、そんなことだったのか」
と意外な気持ちになる。
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不当な信念により、
自分自身や他人を縛り付け
苦しめることはツマラナイことだ。
もし、シンドイと感じることがあれば、
「もしかしたら、自分は
べき思考をしていないか?」
立ち止まって、考えるとよい。
自分や自分の周囲の人が
当たり前のように
やっていることでも
必ずしも正しいとは限らないからだ。
その環境から抜け出せば、
同じことが正しくなくなることも
しばしば起きること。
自分にとって役に立たない
「~すべき」の考え方は、
見直してみるほうがよい。
そして、不必要ながんじがらめの縛りから
自分を解放して、軽やかな気持ちで
活き活きと生活しよう。
他人に対しても、
自分が当然だと思う「~べき」
を押し付けるのはやめて、
他人も自由にしてあげよう。
そうすれば、
他人との人間関係も
自然と良好になってゆく。
不必要な「~べき」をやめれば、
良いことが沢山身の回りで起きる。