他人と自分を比べて劣等感でツラくなったら、ぜひこの話を聞いて!

他人と自分を比較して、
「あの人はこんなにできるのに、
私はできない……」
と劣等感に苛まれたら、
ぜひ、この話を聞いて欲しい。

「あの人のようになりたい!」
と思い、劣等感を原動力として
頑張れるのなら、そうすればいい。

でも、問題なのは、
「自分は情けない!」
「自分はダメな人間だ」と
落ち込む気持ちが強く、
ただツラくなってしまうことだ。

もし、そんなことがあれば、
この話は役に立つはず。

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誰かと自分を比べて、
「ああ、自分はダメだ!」
と意気消沈するとき、

気づいて欲しい
重要なことがある。

それは、あなたが
一つか、二つか、三つの
数少ない物差しで、
相手と自分の能力を測り、

その結果、
自分は劣っていると
結論付けていることだ。

大切なポイントは、
「数少ない物差しで
すべてを判断している」こと。

しかし、現実的には
人の能力や資質を測る物差しは
もっともっと沢山ある。

100や200、
いや、1000も2000、
それより多い数だろう。

つまり、あなたは
ほんの限られた分野だけで
誰かと自分を比較して、
「自分はダメだ」と
勝手に思い込んでいる。

本当は、もっと他にも
いっぱい物差しがあるのに、

あなたはそのことに
気づいていない。

他にも沢山物差しがある
と分かれば、
そんなに落ち込むこともない。

なぜなら、別の物差しで測れば、
あなたの方が
ずっと優っていることも
多々あるからだ。

能力、資質において
すべての面でパーフェクトな人は
世界中どこを探しても
いないのが事実だ。

これも、あれも、それも、
どれも完璧にできる人は
いないということ。

あなたがやっているのは、
ほんの一面だけを取り上げて、

その一面だけを見て、
「あの人はすごい!
でも、自分はダメ」
と考えていることだ。

どんな人でも、
優れた面を持つ一方で、
劣った面も持つ。

できる分野もあるが、
できない分野もある。

得意なこともあれば、
不得意なこともある。

数えきれないほどの
いっぱいある
能力や資質において、

だれもがデコボコの
出来具合さを
持ち合わせている。

たった一か所や二か所、
三か所くらいしか見ないで、
優劣をつけること自体が
適切ではない。

色々な才能、資質がある中、
ある人が特定のことで
長けているからと言い、
「絶対的に優っている人」
とは判断できない。

その点では、確かに
優れているかもしれないが、

その人だって
できない部分もある。

能力や才能、資質は
人それぞれ全然違って、
デコボコがあるから面白い。

つまり、誰でも人は
ユニークな存在だ。

そのユニークな存在に
優劣をつけて、
価値があるかないかと
判断すること自体間違いだ。

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ニュージーランドと日本の
両国に長年住んだ私は、
日本の外から自国を覗いて、
日本について感じることがある。

それは、多くの日本人は
自分と誰かを比較する癖が
強いということ。

日本人に限らず、
人間なら誰でも、
近くにいる人たちと自分を
比較することは普通にある。

ただ、日本人の場合には、
多くの人に比較癖があり、

その癖があまりにも強くて、
自分自身を苦しめることが
しばしばある。

おそらく、
日本人の比較癖は、
学校教育から来るものだろう。

私が日本に住んでいた
昭和時代は、
戦後の経済成長期で
受験戦争も
かなり激しかった。

試験では1点でも
点数を多く取り、
少しでも偏差値を上げ、
一流と言われる学校へ
合格したい!と
大勢の人たちが望んでいた。

学校以外にも、
塾や予備校へ通い、
模擬試験を繰り返し受けて、
その試験の結果は「偏差値」
という形で出てくる。

偏差値が人間の価値を
決めるのではないか? 
と錯覚するまで、
偏差値教育は重視されていた。

偏差値が高い子供は
優秀だと賞賛され褒められる。

その一方で、偏差値が低ければ、
「できない子」の
レッテルを貼られる。

高校受験、大学受験だけでなく、
子供によっては、
小学校受験、中学校受験で
幼い頃から
クラスメートと競争させられてきた。

親も自分の子供が
高い偏差値が取れれば、
大喜びして、
「我が子の将来までが
保障された」気分になっている。

こんな環境下で育てば、
誰かと自分を比較して、
「あの人のほうができる。
自分はダメだ」とやってしまうのも、
不思議ではない。

あの時代の日本では
「偏差値」という
たった一つの物差しで、
人間の価値を測っていた。

しかし、
人生をより長いスパンで考え、
もっと幅広い視野で観れば、

「偏差値」という物差しは
単なる一つの指標にすぎない。

人間のほんの小さな一部を
測る基準でしかない。

この物差しで測った結果が
素晴らしいものなら、
確かにその面では
すごいのだろう。

でも、それで人間の価値が
決まるわけではないし、

その指標が良ければ、
幸せになれるわけでもない。

その数値だけを見て、
喜んだり、悲しんだり、
優越感に浸ったり、
劣等感に苛まれること自体、
オカシナ話だ。

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昔、こんな人がいた。

その人は、
「私は頭が悪くて
勉強もできないし、

だからと言って、
スポーツが万能でもないし、
楽器を上手く演奏することも
できない。自分はダメな人間だ」
と言っていた。

子供の頃に
こういう話を聞けば、
「うん、確かに、彼女は
できない人なんだな」
と思ってしまう。

学生の頃には、
学校での勉強が
生活の大切な部分なので、
学業成績を重視しがちだ。

それと同時に、
スポーツやアート、
音楽の分野で活躍することも
とても重要視される傾向にある。

だから、そのように
考えてしまっても、
ムリはないだろう。

しかし、年齢を重ねるにつれて、
私はこういうスキルよりも、
もっと大切なことがあるのでは?
と思うようになった。

その大切なこととは、
人間が誰でも持つ様々な資質だ。

今までの人生で
色々な人たちに出会ってきたが、
人生上手く行っている人を
観察してみれば、

学業成績やスポーツ、
アートの分野で
抜きん出た能力がある人が、
必ずしも成功するわけでもない。

学生時代に学業成績優秀で、
すごいと思われた人は、
将来、ものすごい大物になるんだろう
と思っていたが、

実際に大人になって、
その人がすごく活躍して、
幸せになっているか? 
と言えば、必ずしもそうでもない。

中学校のクラスで
いつも一番の成績を取り、
いつも表彰されていた人でも、

社会に出てから、
就職先の会社に上手くフィットできず、
落ちこぼれていったケースもある。

逆に、子供の頃には
勉強もイマイチ、スポーツもダメ、
得意なこともほとんどない
目立たなかった子が、

将来、自分でビジネスを立ち上げ、
会社を上場させて、
社会にも大きく貢献して、
経済的にも大富豪になっている。

そんな人たちを見れば、
学業成績やスポーツ、
芸術面での大きな成果は
必ずしも関係ないと分かる。

私たちは
目に見えやすいもので、
色々なものを評価しがちだ。

学業成績やスポーツ
芸術面で表彰されるものは
目に見えやすく、分かりやすい。

しかし、人間には
見えにくい部分も沢山あり、
見えにくい部分は
外の人には分からないから、
そのことを評価されることは
ほとんどない。

でも、
その見えにくい部分こそが、
社会では
かなり役に立つものだ。

その見えにくい何かとは、
その人の人間性とか、
性格や性質、資質など。

具体的には、
責任感、チャレンジ精神、
想像力、課題発見能力、
状況判断力、ストレス耐性、
傾聴力、柔軟性、
協調性、行動力、
計画力など、挙げたらきりがない。

時々、「私は上手く話せないんです」
という人がいる。

その本人は、
そのことを情けなく
感じているようだ。

でも、こういう人って、
他人の話をきちんと聞ける
素晴らしい面を
持っていることも多い。

この素晴らしい面に
本人は全然
気づいていないのだ。

実は、
こういう面があるからこそ、
世の中の人のために
できることもある。

きちんと人の話を聞けること
のお陰で、大勢の役に立ち、
大きな報酬を得ることも可能だ。

特別何も秀でていないように
見える人でも、

その人の傍にいれば、
とても安心できる、
気持ちがほぐれるという人もいる。

こういうことは
評価されることは少ないが、
実は、ものすごい才能だ
と言ってもよい。

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私たちが人生で求めるものは、
人それぞれ全く違う。

ある人にとっては
経済的に成功して、
お金持ちになること。

別の人にとっては、
良いパートナーに恵まれて、
一緒に楽しく生活すること。

また別の人にとっては
特定の分野で
大きな成果を出して、
世界一になること。

具体的に求めるものは
全然違っても、

どうして、
それを手にしたいのか?
とことん突き詰めていけば、

最終的には、皆が
「幸せに生きたいから」
という答えに行き着く。

そして、冷静に考えれば、
幸せに生きるためには、
学業成績やスポーツや
芸術面での大きな成果が
決め手になるわけではない。

外の人には
見えにくい部分を活かして、
多くの人々に喜んで貰ったり、
自分も満足感を得て、
幸せに生きることも可能だ。

私たちは、表面的に
見えやすいものだけで
価値があるとか、優っている、
劣っていると評価して、
それがすべてだと考えがちだ。

しかし、本当は簡単には
見えない部分の方が多い。

見えない部分は
かなり大きな部分だ。

その見えにくい
素晴らしいことを
どんなに価値あるものか? 
測る物差しだって本当はあるのだ。

見えにくいから、
そんな物差しが存在することも
考えもしないが、

本当は、そのような
見えない資質を測る物差しの方が
この世の中には沢山ある。

そのことを知らず、
見えやすい物差しだけで、
自分と他人を測定して、
喜んだり、嘆いたり。

しかもたった一つか二つの
数少ない物差しで、
すべてが決まったように
思っている。

これではあまりにも
視野が狭すぎる!

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誰かと自分を比較して、
「ああ、私はあの人のようには
できない! 自分はダメだな」
と落ち込むことがあったら、

それは、あなたが
たった一つか二つの分野で
その人と自分を比較しているだけ。

数少ない物差しで
自分と他人を評価して、
その結果で悲しんでいるだけだ。

現実的には、この世の中には、
もっと沢山の物差しがある。

別の物差しで測定すれば、
あなたの方が高得点のことも
いっぱいあるはず。

だから、その部分だけで
優劣を決めて、落ち込むのは
オカシイ。

人間は誰でも
様々な能力、才能、資質があり、
デコボコした存在だ。

誰一人全く同じ人間はおらず、
皆がユニークな存在だ。

よって、比較しても
あまり意味はない。

それよりも、ユニークさの
デコボコを楽しむ方が
よいだろう。

この社会は色々な人たちの
集まりだ。

本当に様々な
能力、才能、資質の人たちがいて、
興味深い場所だ。

限られた分野のことだけで
自分と他人を比べて
優劣をつけて、
喜んだり、悲しんだりするのは
やめよう!

そんなことをするよりも、
それぞれの
ユニークさを楽しもう!