「親ガチャ」という言葉を
私は昨日、初めて聞いた。
脳科学者・茂木健一郎先生のトークの中で
この言葉の存在を知った。
先生のトークを聞いて、
「親ガチャ問題」について、
私自身も色々考えることがある。
今回の投稿は、私自身の単なる意見だ。
個人的な一意見として聞いて欲しい。
「親ガチャ」とは、子供の立場で、
親は自分では選べず、
どういう境遇に生まれるかは
全くの運任せ、という意味だ。
この言葉の使用について、
「不謹慎だから」と言い、
反論する人たちも沢山いるそうだ。
どんな親でも、子供のことを大切に思って、
一生懸命子育てをしている。
そんな親に対して、
「親ガチャ」なんて言うこと自体、
大変失礼だ!というふうに考える人もいる。
高齢者の割合が大きい日本では、
儒教思想の影響を強く受けて
「年功序列」のような信念を
疑うことなく信じ込む人も多い。
そういう社会風潮の中では
子供が「親ガチャ」なんて言うことは、
とんでもないことで、
許されるべきではないと感じる人もいる。
「親ガチャ」と発したら、
厳しく罰せられて、
「決して、そんなことは言ってはいけない!」
と強く叱られる子供たちもいるそうだ。
しかし、子供の立場で観れば、
この問題は決して「不謹慎だから」で
片づけられるものではないと思う。
実際に、自分の必要ニーズを
親から満たして貰えず、
社会からも見放されている子供たちが
非常に苦しんでいる、という事実がある。
そんな辛い事実に布をかぶせて、
見えないようにしておくことは、
正しいことだとは思えない。
この社会が不公平であることは、否定できない。
裕福な家庭に生まれ育って、
物質的には何も不自由なく、
心配とは無縁で生活している子供がいる。
その一方で、親が貧乏なために、
給食費も払えず、惨めな思いをする子もいる。
当然、欲しい玩具も買って貰えないし、
服や学校で使う文房具類も、
自分が望むものを与えられない。
親が精神的に安定していて、
人生の先輩として、子供に対して、
良きアドバイスができる家庭もある。
こういう親は子供を尊重して、
子供のニーズをきちんと満たし、
子供にとって好ましい環境を提供できる。
子供が辛い時には、励みになる言葉をかけてあげる。
こんな家庭に生まれ育てば、
子供は親から大切に扱われていると感じて、
安全、安心の気持ちで
明るく生活することができる。
その一方で、子供に暴力を振るう親、
暴言を吐く親、ネグレクトで、
子供の必要最低限も満たせない親もいる。
子供に対して、否定的な言葉を投げかけて、
子供の自尊心を傷つけたり、
親の欲求不満を子供にぶつけて、
憂さ晴らしをするような親もいる。
親に悪意があるというよりも、
親自身が未熟なため、余裕がなく、
子供に安全基地を与えられないということだ。
こんな家庭に生まれてしまえば、
心身ともに健全な成長は妨げられる。
夫婦仲が非常に悪くて、
常に喧嘩が絶えない家庭の子もいる。
いつ両親が離婚するか分からない。
そうなれば、子供は自分が捨てられる心配をする。
こんな状況では、子供は安心できず、
精神的に不安定になり、
心の問題を抱えてしまうだろう。
親が共働きのために、
子供と一緒に過ごす時間が少なく、
淋しい思いをする子供もいる。
親の立場では一生懸命働いているけど、
子供の立場では、
親に十分甘えることができず、
愛情不足を感じるかもしれない。
子供の立場で考えれば、
どのような家庭に生まれ育つかで、
自分の人生が大きく左右される。
たまたま良い家庭環境に恵まれれば、
本当にラッキー。
でも、経済的に非常に苦しい家庭や
親が虐待やネグレクトするような
険悪な家庭環境に生まれてしまえば、
運が悪かったと感じる。
そう感じても、当然ではないだろうか?
自分が生まれた境遇により、
大きな不平等があることは確かだ。
子供時代に辛い思いをした場合、
その子供時代の体験がトラウマとなり、
大人になってからも、
後遺症を長期間引きずることもある。
子供が不平等を感じて、
「親ガチャ」と発してしまうのは、
当然のことで、この言葉を言ったから、
罰せられるというのは、とても可哀そうだ。
子供には全く罪はない。
経済的に苦しい家庭で、
毒親に虐められる子供は、
好き好んでそうなったわけではない。
子供が何か悪いことをしたから、
険悪な家庭環境に生まれたのではない。
単に運が悪かっただけだ。
生まれた境遇によって、
こんなにも違う人生経験をすることは、
やはり、社会が不平等だからとしか言えない。
子供に罪がないのならば、
親に罪があるのだろうか?
「それも違う」と私は思う。
できれば、親は自分の子供に
良い家庭環境、良い教育を与えたいと思う。
子供に安全基地を提供して、
スクスクと健全に育って欲しい
と願っているはずだ。
しかし、親がどんなに頑張っても、
自分が期待する通りに、理想的な環境を
子供に与えられるわけではない。
能力主義社会では、
親の能力によって、経済格差が生まれる。
もし、親が自分の能力を最大限に発揮できず、
あまり良い収入を得られなければ、
自分が望むほど、子供には良い生活を
与えてあげることはできない。
高給取りになれないのは、
親が悪いのだろうか?
学歴社会で、一流大学卒でなければ、
良い報酬が得られない社会システム下では、
学校の勉強ができない人は
社会の落ちこぼれになってしまう。
「努力すれば、皆、同じように
成功するチャンスがあるではないか!」
と主張する人たちもいるけれど、
本当にそうなのだろうか?
人は遺伝的に才能に恵まれたり、
恵まれなかったりする。
また、親だって、自分が子供の時に、
どんな家庭環境で育ったかで、
人生の様々な場面で、
有利になったり、不利になったりする。
頑張ったから、成功できる保証はどこにもない。
どんなに頑張っても、
高い給料を貰えるような職に
必ずしも就けるものではない。
親自身が子供の時に虐待を受けていれば、
大人になっても、アダルトチルドレンであり、
精神的に未熟のままだ。
そんな未熟な親が子供を持ち、子育てすれば、
子供に無条件の愛を注ぎ、
子供にとってベストな環境を作り出すのは
かなり難しいことだ。
親は自分の能力の範囲内で、
一生懸命頑張っている。
それでも、子供のニーズをきちんと満たし、
安全基地を与えてあげて、
子供にとって一番の良い生育環境を提供できる
とは限らない。
やってあげたくても、できない場合も多々ある。
子供に罪がなくて、親にも罪がないのなら、
「親ガチャ」の言葉が反映する不平等問題を
どのように解決すればよいのだろうか?
茂木先生は、「社会全体で子育てすること」
を述べている。
本当に良いアイデアだと思う。
核家族化した今の日本では
この考え方は現実離れしているように思える。
しかし、大昔、日本でも
社会全体で子供たちを育てていた時代もあったらしい。
不可能ではないだろう。
具体的には、経済的ニーズが満たされない子供は
それなりに社会から援助が得られること。
また、虐待やネグレクトで苦しむ子供は、
フォスターファミリーのサービスを利用できること。
その他、色々な支援方法があるはずだ。
「子育ては、生みの親が
100パーセント責任を持つ」
という社会風潮がなくなり、
「社会全体で子供たちを育てていく」
と多くの人々が考えるようになれば、
フォスターファミリーに子供を預けるのも、
何の罪悪感もなくできるだろう。
経済支援が必要な子供がいれば、
もっと簡単にこれが可能ならば、
子供も貧困に苦しむことがなくなり、
恵まれた家庭の子供と同様に、
様々な教育機会を得られるようになる。
それにより、生まれた境遇による
不平等が少なくなり、
より多くの子供たちが苦しみから救われ、
皆がハッピーな社会になるのでは?
今、直ぐには変われなくても、
近い将来、社会全体で
子供たちを育てるシステムが確立して、
これが普通の風潮となれば、
どんなに素晴らしいことだろう。
茂木先生、役立つトークを
有難うございました。
参考動画:「#親ガチャ は親のせいでも子どものせいでもない」
(ユーチューブ 茂木健一郎のもぎけんチャンネル)