ニュージーランドには
根拠のない自信に
満ち溢れる人たちが沢山いる。
これは、30年以上も
ニュージーランドに住んで
私が実感したことだ。
一方、日本人は
高い能力がありながら、
自信なさげな人が多い。
特に私の年齢層では
そのような傾向が強い。
いったいなぜ、そうなのか?
長年不思議に思っていたが、
今となれば、その理由も
分かった気がする。
今回は、
自信満々なNZ人が
沢山いるのに対して、
日本人はなぜこんなに
自信が持てない人が多いのか?
について。
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結論を先に言えば、
「教育」が原因だ
と私は考える。
人間は誰でも、
生まれたばかりの頃には
根拠のない自信がある。
しかし、成長の過程で
日本の教育を受けた人の多くは、
もともとあった自信が
奪われてしまったのだ。
それに対して、
ニュージーランドでは
自分に備わった自信を
失うことが少ないから、
自信があるままで大人になれる。
つまり、日本の不当な教育が
大勢の人たちから
もともと備わっていた自信を
失わせてしまったということだ。
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生まれたばかりの赤ちゃんは
誰もが根拠のない自信を
持っている。
初めてハイハイする時、
初めて立ち上がる時、
初めて歩く時、
「自分はできるだろうか?」
と心配することなく、
尻込みせず新しいことに挑戦する。
今まで経験のないことに
チャレンジする際、
最初から上手く行くことは
まずないだろう。
しかし、
上手にできないからと言って
がっかりすることもなく、
気を落とすこともなく、
諦めることもしない。
できるようになるまで
何度も同じことを試みて、
そのうち目標達成可能となる。
なぜ諦めずに
挑戦し続けられるかは、
根拠のない自信があるお陰だ。
残念なことに、
成長するにつれて
赤ちゃんの時には持っていた
根拠なき自信を失ってしまう人が
日本には沢山いる。
その原因が教育にある
と私は感じている。
教育は、
できなかった人を
できるようにするのが
目的だろう。
しかし、実際は教育により、
できるはずの人を
できなくしてしまうことも
珍しくない。
教育を受けるにつれて、
幼い頃あった自信は
徐々に失われてゆき、
成人した後は、
「自分にはムリだろう」
「僕にはハードルが高すぎる」
「どうせ、私にはできないから」と言い、
チャレンジしない人になってしまう。
挑戦しなければ、
意義あることを成し遂げるのも
不可能だ。
当然、「何もできなかった」
という結果で終わる。
日本の不当な教育は、
人が生まれながらにして持つ
根拠なき自信を奪い、
チャレンジできない人を
大量生産する、
と私は考える。
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では、人から自信を奪う
日本の不当な教育とは
どのようなものか?
それは、
偏差値で人間の価値を測る
教育システムだ。
日本では学校のレベルは
偏差値で決められている。
偏差値の高い
一流と呼ばれる学校に
合格できれば、
「立派な人だ」と褒め称えられ、
逆に偏差値の低い
Fラン大学しか入れなければ、
「頭の悪いバカな人」と思われて、
尊敬されることはない。
偏差値が高ければ、
価値ある立派な人間であり、
低い偏差値しか取れなければ、
「ダメ人間」のレッテルを
貼られてしまう。
私が学生の頃には、
学歴社会の風潮が非常に強く、
偏差値がすべてだった。
偏差値の高い高校に進学して、
偏差値の高い一流大学に入って、
卒業後には一流企業と呼ばれる
会社や組織に所属して、
そこで一生安泰に生活することが
「成功者」のやることだと
思われていた。
中学生の頃にも、高校生の頃にも、
偏差値が高い学校に合格するために、
クラスメートよりも1点でも高得点を得て、
できるだけ偏差値の高い学校へ
進学できるよう仕向けられていた。
しかし、受験戦争で勝てる人は
人数的に限りがある。
偏差値の高い一流高校、大学は
定員数が決まっているから、
割合的に言えば、
ごくわずかの学生しか合格できない。
一流の学校に合格できる人よりも、
できない人のほうが
遥かに多いのが現実だ。
そういう人たちが
どんどん自信を失って、
「自分は価値のない人間だ」
「自分にはできない」
と感じるようになってしまう。
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国語、数学、理科、社会、英語
の学業成績だけで
子供の能力を測る。
これらの科目で
良い点数が取れれば、
能力のある子供だと
高く評価される。
そうでなければ、
「馬鹿な子。能力の低い子」
とみなされて、親や教師からも
褒められることはない。
このように教育されれば、
勉強ができない子供は
当然自信を失って、
「自分は価値ない人間だ」
と思い込んでしまっても
不思議ではない。
しかし、
国語、数学、理科、社会、英語
などの学校の勉強が
すべてだろうか?
これらの科目で
高得点を収められる人が
優秀な人間なのだろうか?
たったそれだけのことで
人間の能力を測れるのだろうか?
試験のための勉強で
高得点を取る技術に長けることは、
人間の多様な才能、多様な資質、
多様な能力のうちの、
ほんの一部でしかないだろう。
それなのに、
このほんの一部のことで
人間の価値を決めて、
その人の将来の可能性まで
予測している。
たった一つの物差しで
測った結果が良くないからと言い、
すべての面で「ダメだ」
と決めつけられてしまう。
これが多くの日本人が
自信のない大人に
成長してしまう原因だ
と私は思うのだ。
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自分の子供たちを通して
NZの小・中・高等学校の様子を
覗く機会に恵まれた私は、
日本の教育とは全く違う教育が
NZではされていると知った。
ここには偏差値なんていう
物差しはない。
大学だって
日本のような一流大学とか、
Fラン大学という考え方はない。
ある科目の勉強が得意な子には、
その科目をもっと伸ばすよう
奨励することはあっても、
その科目が不得意で
やりたくないと思う子供には
同じように勉強させようと
無理強いすることはない。
苦手を克服するよりも、
得意を更に伸ばして
長所伸展に重きを置くのが
NZの教育だ。
勉強が好きでなくも、
スポーツやアートに関心があれば、
そちらに力を入れるように
指導して貰える。
我が家の子供たちが通った
小中学校の成績表は、
「1」「2」「3」「4」「5」とか、
「A」「B」「C」「D」「E」
の数値での評価は一切なかった。
その代わり、
すべての科目において、文章の形で、
子供の勉強の進み具合がどうであるか?
が書かれてあった。
子供に点数をつけて、
どちらのほうが優秀だとか、
どちらのほうが劣っている
というような評価はなしだ。
子供の得意分野を主に
どんなことに挑戦したのか、
どんな学びをしたのか
が説明されていた。
日本のように
試験の結果という物差しだけで
子供の「人間としての価値」を
決めないから、
自信を失う子供も少ない。
たとえ勉強ができなくても、
他のことが得意ならば、
何も問題なくその得意なものに
専念できるのがNZのシステムだ。
こういう教育環境があれば、
生まれ持った自信を
失うこともあまりない。
そのお陰で
生まれた時からある
根拠なき自信を
大人になるまで持ち続けることも
簡単にできる。
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より良い人間を作るための教育が
人から自信を奪い、
「自分はダメ人間だ」と思い込ませ、
チャレンジしない人に
仕立て上げてしまうのは、
とても残念なことだ。
この点で
日本はNZから学ぶことが
沢山あると私は思う。
ということで、今回は、
自信溢れるNZ人が多いのに対して、
日本人は自信のない人が
沢山いるのは、
日本の教育の仕方に問題があるから
という話をした。