私は東京生まれで、成人するまで、ずっと東京に住んでいた。20代半ばに、ニュージーランドに留学して以来、この国のゆったりした生活環境が気に入り、卒業後は現地で就職。その後、この国の人と結婚して、今でもこの地で生活している。ニュージーランド暮らしは30年近くになるが、私はこの国での生活が大好きだ。今回は「日常生活編」の私のお気に入りを紹介したい。
私は毎朝、散歩をする習慣がある。自宅周辺を20分ほど歩くだけだが、坂道の多い地域なので、息切れしたり、汗をかいたりするほどで、かなり良い運動になっていると思う。散歩のお陰で、腰痛や便秘もすっかり治った。緑豊かで、自然の多いところなので、歩いていて清々しいと感じる。特に、天気がよい日には、青空と緑が綺麗で「本当に、素晴らしいところに住んでいるな」と嬉しくなるほどだ。
散歩をしているとき、私の近くで車を停めて「バス停に行くんでしょ? 乗せてあげるよ」と声をかけてくれる人がいる。私はその人のことを全く知らない。でも、歩いている私を見て、親切心で車に乗せてくれようとするのだ。もちろん、私は散歩のために歩いているので、お礼を言ってお断りするが、同じ地域に住む、見ず知らずの人から、そんな優しい気遣いをして貰って、私はとても温かい気持ちになる。
公共のバスに乗っていて、いつも感心することがある。乗車時に、乗客が運転手さんに「お早う!」「こんにちは」と挨拶している。そして、バスを降りる時には、必ず「ありがとう!」と大きな声でお礼を言う人が多い。中には何も言わずに静かに降りてゆく人もいるが、そういう人の方が数は少ない。「ありがとう!」と言われた運転手さんは、ニコッ笑って「どういたしまして」と目で合図を送ったり、時には「今日も一日良い日をね」と声を出して返す場合もある。小さなことだが、バスの乗客と運転手さんの間で、きちんと挨拶したり、お礼の言葉を述べることは、素晴らしいことだと感じる。
挨拶についてだが、私は散歩中に、他の人と道端ですれ違う時がある。そんなとき、知らない人同士でも、「ハロー」と挨拶し合うことが多い。私は、こういう感じのフレンドリーさが大好きだ。自分が知っている人だけに挨拶するのではなく、知らない人でも、すれ違ったら「ハロー」と言って、ニッコリ微笑む。たったこれだけのことだが、明るい顔で「ハロー」と言われれば、こちらの気持ちも明るくなる。
バスにまつわる面白い話がある。私が留学一年目に経験したことだ。町中から大学行きのバスに乗った。バスの運転手さんは、病気休暇を取った同僚の埋め合わせをしていたようで、そのバスルートを運転するのは初めてだったらしい。乗客の一人に、バスのルートを確認しながら運転する姿を、私は前方座席で眺めていた。
「次の交差点はどっち?右折、それとも、左折?」といった具合に、バスルートを知っている乗客に聞いているのだ。「僕、普段はこのルートは担当ではないんだよ。だから、ちょっとナビゲートしてくれない」と言い、普通に乗客の一人に道案内をお願いしているのだ。頼まれた乗客も驚くことなく、快く「もちろん、いいですよ。僕は毎日、このルートのバスを利用するので、ルートは完璧に知っていますから」と。
私の生まれ育った東京では、こんなことはあり得ないだろう。公共のバスサービスを提供する側が、バスルートをお客さんに聞くなんてことがあったら、大問題になって、解雇されてもおかしくないと思う。
しかし、ニュージーランドでは、こんなことは普通に起きる。その当時の私は、この国で生活し始めたばかりだったので、日々起こることの多くが、新鮮で、珍しかった。この出来事もそのうちの一つで、私にとってはカルチャーショックだった。
もし、運転手さんが、ちょっと道を間違えてしまっても、「まあ、いいか」って、許されてしまいそうだ。「この運転手さん、大丈夫? 乗客にバスルートを聞くなんて、プロフェッショナルじゃないよ」と呆れる人もいるだろう。しかし、私にとっては、こういう、ちょっといい加減なところに、人間味のようなものを感じて、「あ~、いいな」と思うのだ。
サービス提供者が、完璧なサービスを提供するために、身体を強張らせ、カチカチとしているのではなく、「まあ、ちょっとぐらい間違ってもいいでしょ」とゆったりした気持ちで仕事をしている。そんな姿を見ていたら、そのいい加減さも、笑えるな、と思えた。
こういうお国柄なので、どうしても、時間に遅れてはいけない状況になれば、それなりに、自分で確実な交通手段を用意する必要はある。そうすることを面倒だと感じる時もある。しかし、それでも、1分でも電車の時刻表を狂わせたら、罰を食らい、解雇されるような社会よりも、ずっと人間的でいいなと思った。