31年間のニュージーランド生活の中で、私が得た貴重な学び

私は成人するまで、ずっと東京で暮らし、
20代にNZで大学留学をして以来、今までの間、
継続的にNZで生活している。
東京に居た頃は、物質的には恵まれていたが、
精神面で満たされない部分が多かった。

今回は、
私が31年間のNZ生活で学んだ
「大切なこと」についてお話したい。

最初の学びは、
「短所克服よりも、長所伸展でよい」
ということ。
子供たちが小・中学校、高等学校の頃、
父兄の立場で学校の教師と
接する機会が多かった。
その時、感じたのは、
ニュージーランドの教師は、
子供たちを褒め称えることが上手なことだ。

ちょっとしたことでも、
子供が少しでも良くできたことは、
かなり大袈裟に「~ちゃん、スゴイね」と言い、
子供が興味を示すものを
もっと沢山やらせてくれる姿勢だ。
子供の得意分野を見つければ、
積極的にそれを伸ばそうとしてくれる。

教師と親の面談でも、
子供が得意とすることを
次から次へと言い続ける。
そんな教師の話を聞いていれば、
「家の子って、天才なの?」
と錯覚してしまうほど。
でも、我が家の子供たちは、
平均的で普通の子どもたちだ。
面談後に、他のお母さんたちに会えば、
「あんなに褒められたら、気分いいよね」
という会話になる。

子供ができない分野のことは
ほとんど口に出さない。
あまりにもできなければ、
それなりの補習をしてくれるが、
そうでもなければ、別に何も言わない。

この国では、
苦手なことをムリに克服するよりも、
得意とする分野をどんどん伸ばして行こう
という姿勢の教師が多い。
そのため、子供が得意とするものがあれば、
一般カリキュラムから外れたものでも、
子供に教材を与えてやらせてくれることもある。

子供たちの面談に行くたびに、
私は自分が子供時代に経験した
日本での親子面談を思い出した。
私の教師は、「ここがちょっとできないから、
頑張って、できるようにしましょう」
という感じの言葉が多かった。
面談の夜には、親に叱られるかも?
という不安もあり、帰宅するのが怖かった。

人間は、誰でも得意・不得意がある。
どんなに立派な人だって、
すべての分野を完璧にこなすことは不可能だ。
私たちのエネルギーや時間も、
無限にあるわけではない。

できないことを、できるようになるために、
ムリに嫌々頑張って、力尽きてしまうより、
できないことには気にすることなく、
できることに注目して、
それをどんどん伸ばして行くほうが
ずっと建設的だと思える。

社会に出てからも、
自分が不得意なことは、
それを得意とする人に任せて、
自分はより良くできることに専念して、
得意分野を活かすほうが望ましい。
皆がそうすることで、すべてが効率よく回り、
社会全体からしても、
大きな恩恵を受けれるはずだ。

できないことを嘆いたり、
悲しんだりする必要もない。
できることを
積極的にどんどんやればよい。
学校の校庭で、
子供たちが活き活きと走り回る姿を見ていたら、
「短所克服よりも、長所伸展のほうがよい」
と心の底から確信した。

2つめの貴重な学びは
「失敗してもいい」ということ。
もちろん、失敗したくて、
わざと失敗するわけではない。
また、失敗することにより、
命の危険にさらされたり、
大きな損失を被ったりする場合は話は別だ。

たいていのことは、上手く行かなくても、
別にそんなに大きな損失もない。
そんな場合に、上手く行かないことを恐れて、
尻込みしてしまうのは残念だ。

NZ生活で私が感じたのは、
周囲の人たちは皆、
けっこう気軽に色々なことに挑戦していること。
「やってみて上手く行かなかったら、
恥ずかしい。体裁がよくない。
人に馬鹿にされるかも…」
というような考えをする人は、
私の周りにはほとんどいない。
「面白そうだな」と思ったら、
「じゃあ、やってみよう」と気軽にやる人が多い。

たとえ失敗しても、上手く行かなくても、
「どうだった? 楽しかった?」と聞き、
自分がそれをやることで楽しめたのなら、十分。
試してみて、満足できたのなら、
「それでいいじゃないか」という考え方だ。

これは私が日本で受けた教育とは、
真逆なものだ。
私は子供の頃、ピアノを習っていた。
ショパンの曲が大好きで、
自分でもショパンの曲を沢山弾けるようになりたい
と思っていた。
私がピアノを習いたかった理由は、
単にピアノを弾いて、楽しみたかったから。

しかし、残念なことに、
親やピアノ教師は
「楽しむため」が目的ではいけない
という姿勢だった。
「やるからには、高いレベルに
到達しなければならない。音大を目指せ」
という感じだ。
ツマラナイ音楽理論の勉強を押し付けられ、
「いついつまでにこれを練習して、
きちんと弾けるようにしなさい」と厳しく言われ、
もう嫌になってしまった。
厳しい訓練に耐えられず、挫折してしまったのだ。

私の親はかなりの完璧主義者。
また、体裁を整えることに忙しい人間だ。
そんな親は本当に厳しかった。
「始めたからには、途中で止めてはダメ。
立派に上達しなければ、世間体が悪い」
と外の人にどう思われるかばかりを気にして、
自分が好きで、楽しんでいるのか?
ということは二の次だ。
ピアノに限らず、多くのことでも同様だった。

こういう教育を受ければ、
「失敗することはよくないことだ」
という信念が植え付けられて、
何か試してみたいと思っても、
気軽に始めることができなくなる。
「上手く行かなかったら、人に笑われる。
みっともない。恥ずかしい」
の気持ちが先立って、何もできなくなる。

NZにはもっと自由な空気が流れている。
「興味があるなら、やってみれば?
やってみてダメなら、止めればいいじゃん」
とラクに構えている人たちが多い。

公園に行ったら、踊りを楽しむ集団がいた。
上手な人もいるけれど、
中にはちょっと下手くそかも?
と思える人もいた。
でも、皆、笑顔で楽しそうに踊っている。

他人が自分のことをどう思うかよりも、
自分がそれをやって楽しむことが一番。
別に上手にできなくても、
どんなに下手な踊りでも、
踊ることが楽しければ、
気にすることなく、踊りの輪に入る。
そういう光景をあちらこちらで見れば、
体裁よりも、自分がエンジョーイすることが
一番大切だと思う。

失敗してもいい。
完璧にできなくてもいい。
途中で止めてもいい。
とにかくやってみて、
気に入ったら続ければいいし、
イマイチならストップすればいい。
こういう気軽な姿勢を身につければ、
生きることも楽しくなるだろう。

NZの生活で私が得た
貴重な学びの3つ目は、
「一貫しなくてもいいこと。
変化してもいいこと」だ。

最近の例を挙げれば、
新型コロナ感染防止の対策に関しても、
政府のやり方が短期間でどんどん変わってゆく。
昨年末までは、少数でも感染者が出れば、
国全体や一部の地域をロックダウンして、
人の往来を厳しく規制する方針だった。

しかし、今では「信号機システム」
という新しいやり方が採用されて、
ワクチン証明書を持つ人ならば、
どのような感染状況であっても
ほとんど普通の社会生活が可能となった。
新規感染者数の点では、現在は昨年よりも
より大きな数字が出ている。
それでも、今まで閉鎖されていた国境が、
近々段階的に開いてゆくという動きがある。
これにより、
自国民で帰国できなかった大勢が、
里帰りできるようになる。

NZではある時期には「こうしなさい」
というものがあっても、
暫くすれば、真逆の方向に動き出し、
「もうこのやり方は無効」
というものもしばしばある。
コロナ対策だけでなく、
政府が決めるルールに関しても、
この傾向が強い。

実際にこうやってみたら、
どのような反応があったのか?
どのような結果が得られたのか?
やってみて手ごたえを感じながら、
どんどんルールを変化させてゆく。
いつでも反対派は必ずいるが、
国民の大多数が
状況に合わせてフレキシブルに変化できる。
政府のやり方にもきちんとついて行っているようだ。

日本でリストラに遭えば、
「もう絶望的だ。人生終わり」
と嘆く人もいるだろう。
リストラをネガティブに捉える人も大勢いる。
しかし、NZでは、時代や社会の変化に応じて、
無くなる産業があるのは当たり前だと考える。
リストラの対象になった人は
恥ずかしい存在でもなければ、惨めな人でもない。
時代の変化に必要だから起きる現象であり、
「リストラはあって当然だ」と考える人も多い。
次の仕事が見つかるまで、失業者が困らないよう、
失業手当を充実させることで、国民を助け、
社会がより良い方向へ動いて行けるように、
変化を積極的に取り入れる姿勢がある。

また、一旦、こう決めたら、
ずっと長い間、それを守り続けなければ
一貫性がないからいけない、
ということは言わない。
その時々の変化に応じて、
一番良いと思われるものを常に追求している。
変わり続けることは当然であり、
変わることが望ましいと考える空気さえ感じられる。

今まで自分たちはこのようにやってきた、
と言うものがあっても、
他の国の人たちが別のやり方をして、
上手く行っていると知れば、
躊躇することなく、
積極的に試してみようとする国だ。
必ずしも上手く行かなくても、
とりあえずはやってみて様子を見る。
そのようなオープンマインドが
私には素晴らしく感じられる。

個人レベルでも、
「自分が言ったことを守り、
一貫させなさい」と考えるより、
人は日々、学びながら賢くなっていくもの。
たとえ、今日、こう思っても、
明日は別の考えになるかもしれない。
でも、それはそれで普通のこと。当然のこと。
このように考える人が私の周りにも多い。

「自分の言った意見は
最後まで一貫させて守れ」
という教育を日本の実家で受けた私は、
最初はそういうものだと思っていたが、
今では、その考え方は捨てた。
その時々に合わせて、
時代の変化に合わせて、
自分自身も変わることに積極的になろう
という気持ちになった。

ということで、今回は、
私が31年間のNZ生活で得た
貴重な学びについてお話してみた。