成人するまで日本に住んで、
その後、約30年間、
ニュージーランドで暮らしている私が、
日本の外に出て、感じたことを話したい。
今回の投稿は、私の肌感覚にすぎないので、
正しいかどうかは分からない。
参考程度に聞いて頂ければ、幸いだ。
日本にいる人と話していて
よく思うことは、
失敗に対して敏感すぎる。
失敗を極度に恐れる傾向にある。
ということだ。
なぜ、そうなのかを考えた時、
その原因は、社会システムにあるのでは
と思った。
「こんな新しいことをやろうと考えている」
と話せば、日本にいる人からは、
「そんなのムリに決まってるよ。
失敗するからやめた方がいい」と
ネガティブなコメントを貰う場合が多い。
ニュージーランドにいる人に同じことを言えば、
「面白そうじゃない。チャレンジを楽しんでね。
応援しているから」と返ってくる。
新しいことに対して、すぐに「失敗するから」
という考えが頭に浮かぶ人が、
日本には沢山いると感じている。
日本では「成功」か「失敗」
のどちらかしかない印象を受けた。
「ゼロ・百思考」とか、
「白か黒かのどちらか」という
2つの事柄の、どちらか一方を選ぶ
「二者択一」の考え方をする人が多い。
そのために失敗を恐れるのではないか、
と私は思った。
高校、大学受験を例にすれば、
3教科の試験があって、
1教科につき100点が最高点だとすれば、
全科目パーフェクトならば300点満点になる。
合格点が250点以上だと仮定したとき、
250点取れた人は合格する。
でも、249点の人は不合格になる。
こういう状況下では、
250点取り合格した人は「成功」、
でも、249点の人は「失敗」となる。
たった1点の差で、
「成功」か「失敗」か大きな違いになるのは、
オカシナことでは? と私には思える。
250点でも、249点でも、
ほとんど変わりがない。
たまたま、その時にちょっとミスして、
249点になったかもしれない。
本当は250点を取る人よりも、
ずっとできるかもしれないのに。
250点取れて合格できても、
その人は成功できたから
パーフェクトかと言えば、それも違う。
まだまだ伸びしろがある。
そういう意味では、
100パーセントの成功とは言えない。
249点と250点の比較は
ちょっと極端すぎるけれど、
220点とか、200点という人も
沢山いるだろう。
こういう人は不合格だから
100パーセント失敗なのか?
と言えば、そんなことはない。
もっと言えば、
3教科の合計が80点とか90点
という人だっている。
こういう人でも、すべてがダメだった
ということではない。
完全な成功もなければ、
完全な失敗もないはずだ。
失敗したとしても、
失敗に至るプロセスの中では、
何か良いことだってあったはずだ。
やることなすこと
すべてのことにおいて、
「成功」か「失敗」のどちらかで判断せず、
グラデーション的考え方をした方が、
気持ち的にもラクになるし、
新しいことに挑戦する意欲にも繋がり、
自分を良い方向に導けるのでは? と思う。
0から100までの幅があった時、
最初にやってみた時には30の結果でも、
やり方を改善したり、修正していき、
次は40になればよい。
そして、再び改善、修正をして、
その次は50となる
やっているうちに、
いろいろコツも分かってきて、
より良くできるようになる。
最初から100の結果が得られなければ、
それは失敗でダメなんだ
と考えれば、「どうせ失敗するから、やめな」
と言うことになる。
でも、この考え方をしていれば、
いつまで経っても、何も挑戦できないから、
自己成長も望めない。
やりながら学んで、
20から30、30から40、
40から50、50から60と
徐々に100に近づいていけば、
それで十分だと考えれば、
新しいことでも怖くなく、
ラクにチャレンジできるようになるだろう。
失敗か?成功か?のどちらかしかない、
と考えてしまうのは、
日本の社会システムにあるのではと思う。
日本の入試は、たった一度の試験で学生を評価して、
彼らのその後の人生を大きく左右する。
受験で失敗してしまえば、
「もう人生終わりだ」と感じる人さえいる。
終身雇用の社会では、
新卒の学生が同じ時期に入社して、
基本的にはその会社で生涯働くことになる。
「一流企業」と呼ばれる
立派で有望な会社に就職できれば、
将来も安泰で、保証されると考える。
でも、そうでなければ、
給与待遇面でも劣っていて、
苦しい生活を強いられる場合も多い。
そのため、就職時には、
非常に慎重になる必要がある。
たった1度の大事な決断時には、
絶対に失敗は許されないと思うほど
緊張してしまうのだ。
こういう社会風潮と社会システムが
「上手く行かなかったらどうしよう」
という恐怖を人々に植え付けてしまう。
ニュージーランドでは
「終身雇用」という考え方はない。
「ジョブ型雇用」が一般的で、
労働力もかなり流動的だ。
一つの組織で数年勤めた後、
他の組織の上のポジションに移ることは、
多くの人がすることだ。
だから、就職を決める時にも、
間違って自分に合わない組織に
就職したらどうしよう、
なんてことを極度に恐れる必要もない。
合わなかったら辞めて
別のところに移ればよいだけだ。
学業に関しても、
似たようなことが言える。
ニュージーランドの大学では
一部のコースを除けば、
大学のコースに入ることは
割と簡単にできる。
でも、コースに入ってからは
一定のスタンダードを満たさなければ、
容赦なく落とされてしまう。
だから、大学生はかなり勉強する。
入学時に専攻を決めたとしても、
実際に勉強を始めてから、
自分には合わないと分かれば、
専攻を変える学生も沢山いる。
途中で専攻を変えることは、
かなり普通のことだ。
一旦、大学に入学しても、
日本のように卒業まで
継続して勉強する必要もない。
途中でやめていく人も多いし、
途中でやめても、数年後に再び、
大学での勉強を再開できる。
その場合には、数年前に取った単位を
そのまま使うことができるのだ。
日本の場合には、
一旦決めてしまえば、
ずっとそこにいないといけない、
という感じがあり、流動性に欠けるので、
一つひとつやることに
慎重になりすぎるのではないか?と思う。
1回の挑戦時に上手く行かなければ
すべてがダメになってしまう
社会システムが崩れて、
何度でもやり直しがきくような社会に
日本がなればいいな~と思う。
そうなれば、日本にも
グラデーション的考え方ができる人が
沢山出てくると思う。