「親切」と聞けば、
一般的には良いものだとされている。
しかし、現実的には
自分にとって有難い親切もあれば、
迷惑に感じる親切もある。
子供の頃から「人に親切にしてあげよう」
と教え込まれて育った私たちは、
積極的に気を利かせて
他人に親切にすることもある。
でも、その親切が相手には
「有難迷惑」になっていることもしばしばだ。
今回は、「親切」と「お節介」は
どこがどう違うのか?
考えてみたい。
受け取る側が心底「有難い」と感じれば、
それは「本当の親切」だろう。
その一方で、有難迷惑だと思えば、
「お節介」を受けていることになる。
「本当の親切」と「お節介」は
幾つかの点で明らかな違いがある。
昔、こんなことがあった。
友人が突然、電話をかけてきて、
「~だから、こうしなさい」
と言ってきたのだ。
具体的な内容は忘れてしまったが、
今でも覚えていることは、
そのアドバイスをした後、
友人が私に言った言葉だ。
「あなたのために、
私はそう言ってあげているの。
普通だったらこんなこと言わないけど、
あなたのことを思うから、
私はわざわざ教えてあげているのよ」と。
アドバイスそのものは、
「まあ、そうなんだろう」と異議はなかった。
でも、友人が最後に付け加えた言葉が
私をとても不愉快な気分にさせた。
「なんだか上から目線で嫌な感じだな」
と思ったのだ。
電話を切った後、
私は暫くモヤモヤしていた。
友人は親切に私に教えてくれたつもりだ。
でも、私は、
「この親切はいったい誰のためだろう?」
と考えていた。
「私のためと言うよりも、
友人自身のためではないか?」
と感じたのだ。
私が助けが必要で、お願いしたから
友人が応えてくれたのなら、
本当に有難いと思う。
しかし、頼んでもいないことを
友人は私に勝手に一方的に押し付けてきた。
助けが本当に必要な時に、
それに応えてあげるのが「親切」だろう。
本人が必要としていないことを
一方的に押し付けることは「お節介」だ。
友人は「同等な人間関係」で
私にアドバイスをしたとは思えなかった。
友人のほうが私よりも優っていて、
私は友人から教えて貰わなければ
分からないから、それができないから
「わざわざあなたのために教えてあげている」
と言われているように聞こえた。
なんだか見下されたような気持ちになった。
誰でも得意・不得意があり、
自分の得意分野では、
それを不得意とする人を助ける。
でも、自分ができないことは
できる人に助けて貰う。
このようにお互い助け合うという
「同等な人間関係」ならば、
受ける親切も気持ちがよいものだ。
しかし、一方的に相手のほうから
「あなたには分からないだろうから」
と上から目線で押し付けられる親切は
お節介以外の何物でもない。
頼まれもしないのに、親切にしてくる人は
相手のことを「できない人だ」
と思い込んでいる。
つまり、相手の能力を疑っているのだ。
もしかしたら、親切をする側ほど、
親切を押し付けられる側は、
そのことができないかもしれない。
でも、常に誰かにやって貰い、
自分でやることをしなければ、
いつまで経っても、できない人のままでいる。
親切にされるがまま、相手に甘えていれば、
「依存」の人間関係を作り上げてしまう危険もある。
親切の裏にあるモチベーションを考えれば、
それが本当の親切なのか、お節介なのかが分かる。
もし、モチベーションが
本当に困っている人のために
ということなら、親切になる。
しかし、親切をする側が、
自己満足のために相手に親切にする
ということもある。
親切にすることにより、自己価値を見出して、
「自分は他人にこんな親切ができる
素晴らしい人間だ」と充足感が得られる。
こういうモチベーションで親切にすれば、
相手にお節介になることもしばしばだ。
モチベーションが「自分のため」なら、
親切にされた人が感謝しない時、
自己満足で親切をした人は酷く憤慨して、
相手に攻撃的になる。
「自分はこんなに親切にしてやったのに、
アイツは全然感謝の気持ちも見せない。
なんて失礼な奴なんだろう!」
と文句を言ってくるのだ。
こういう状態になれば、
親切にされた側は、たまったものではない。
自分がして欲しくないことを
勝手に相手からされて、
その後、お礼をしなかったからと言い、
責められてしまうのだ。
とても理不尽なことだと思われる。
親切心があまりにも大きく、
非常に気が利く人は、
一見、立派に見えるけれど、
ちょっと注意して付き合ったほうがよい。
なぜなら、その人がする親切は
親切を受ける人のためではなく、
自分自身の自己満足のためかもしれないから。
親切にされた側が感謝の気持ちを示さなければ、
攻撃されてしまうこともよくあるからだ。
自己満足のための親切が多い人は、
深層心理では無価値観の問題を抱えている。
そのままの状態では自分には価値がない
と思い込んでいるのだ。
そのため、人に親切にして、
自分は立派なことをしていると自負し、
それにより、自分の心の奥底にある無価値観を
埋めようとしている。
心の中にぽっかり空いた穴を
親切をして自己満足を得ることで、
埋めようとしているのだ。
時には自己犠牲をしてまで
他人に親切をして尽くす人もいる。
これもかなり問題があるのでは?と私は思う。
相手が本当に助けを必要としているなら、
自己犠牲にしてもよいと考える人がいる。
一般的にそういう人は偉い人だと褒め称えられる。
しかし、少し冷静になって考えたほうがよい。
確かに、相手には親切にしている。
でも、その人は自分自身で大きな犠牲を払い、
自分自身には親切にしていないことになる。
本当に困った人に親切にして助けるのは
とても素晴らしいことだ。
しかし、それと同時に、
自分自身にも親切にしてあげる必要がある。
自分だって大切な人間なのだから、
相手と同様に大切に扱ってあげてもいいはず。
本当の意味での親切は
積極的にするべきだが、
大きな自己犠牲を払ってまで
相手に尽くさなくてもよい。
自分自身も相手と同様に重要な人間。
相手にも親切。そして、
自分にも親切にしてあげるほうがよい。
ということで、
今回は、
私が考える「親切」と「お節介」の違いを
お話してみた。
表面的には親切に見えることでも、
「お節介」になってしまうこともあるので、
十分気をつけたほうがよいということだ。
具体的には、
1)相手から本当に必要とされているのか?
2)親切のモチベーションはどこにあるのか?
3)対等な人間関係での親切なのか?
この点をよく考えて、
有難迷惑にならないよう、
相手に喜ばれる親切をしようという話だ。