子供の頃、両親との人間関係で
色々苦しむことが多かった。
昔を振り返っても、
楽しい思い出は一つもなく、
父の暴力に脅えていたことや、
母からのネガティブ言葉で、
自尊心を傷つけられて
悔しい思いをしたことしか
頭に思い浮かんでこない。
今回は、子供の頃のことは横に置き、
大人になってから、両親との人間関係で、
私が残念に感じていることを
お話ししたい。
一番残念に思うことは、
両親と接する際、
自分の考えを述べたり、
意見を言ったり、
ありのままの自分でいると、
人間関係が上手く回らないことだ。
両親は両親なりに考え方や価値観がある。
そして、私は両親とは違う考え方をする。
私が大切だと思うことと、
両親が大切だと思うことは、全く違う。
親子と言えど、私たちは別個の人間だから、
考え方や価値観が違っても当然だし、
それはそれで何も問題ないはずだ。
「私はこう考える」と言う。
そして、両親は「私たちはそうは思わないよ。
ああだと思うよ。
お互い違う考え方をするんだね。以上。」
で終わればいいのに、
そうはいかないのが私たち親子だ。
父と意見の相違があれば、
「お前の言っていることは間違っている!」
と切れて、怒鳴りつける言い方になる。
そういう言い方をされれば、
私もカチンときて、
顔の表情がこわばってくる。
父の場合は、物理的に近くに居れば、
ここで暴力が始まることが多かった。
母と同意できない時には、
「だから、あんたはダメなのよ」
と人格否定が始まる。
こんな感じでは、安心して、
自分の思ったこと、考えたこと、
意見などを自由に表現できない。
非常に残念なことだと感じている。
一つの事柄に対して、
様々な考え方が存在する。
どの考え方が正しくて、
どの考え方が間違っている、
というものではない。
どちらの考え方が優っていて、
どちらの考え方が劣っている
ということでもない。
単に色々な考え方があるというだけ。
正しい、間違っているというように、
白・黒で判断すること自体オカシイ。
独裁国家においては、
下の者が独裁者の言うことに反して、
全く違う意見を述べれば、
捕らえられて処刑されることもある。
表現の自由が保障される日本に居れば、
「そんな国もあるんだね」
と驚く人も多い。
私の日本の実家では、
これと似たようなことが起きていた。
父親は独裁者で、父の言うことは絶対的。
子供の立場であった私は、
父と違う考え方、意見を述べることは、
絶対に許されなかった。
力も、経済力もない子供は、
親に見放されて養って貰えなければ、
命の危険もある。
私は、「家庭版独裁国家」
に生まれ育ったような気がする。
まだ小さな子供のころは、
知識も乏しく、道徳的な分別もないから、
親が「これは、こういうもの」
と教えるのは決して悪いことではない。
それは当たり前だろう。
しかし、子供が成人して、
独り立ちした後でも、
両親は私のやることに反対したり、
私の考え方や意見を尊重しなかった。
私からしてみれば、父は、
視野の狭い独裁者としか思えない。
親子関係は、人間関係の中でも、
一番基本的なもので、一番大切だ
と考える人も多い。
もし、これが本当なら、
そういう一番大切な人間関係において、
自分らしくいられないこと、
考えや意見を自由に表現できないことは、
非常にツライことだ。
自分はそうは思わないのに、
親に気に入って貰うために、
親とイザコザを起こさないために、
自分に嘘ついて、
自分ではない自分を演じて、
親に合わせて生きなければならないのか?
もしそうなら、とても残念だ。
自分らしく生きることや、
自分の考えや意見を述べれば、
親から全否定されて、
喧嘩に発展すると思えば、
子供の立場からしても、
そんなのは嫌だから、避けたくなる。
避けた結果、何年も音信不通になった。
最近は、少しは連絡しあうようになったが、
それでも、年に3~4回、数分話をすればよいほうだ。
一番大切な人間関係の人たちと
このような疎遠な関係でいることは、
空しいと感じる。
「私はこう思います」、
「私はこうしたいです」、
「私はそうは思いません」、
「私はこのように生きたいです」、
「私はこのような人間です」
ということを
一番大切な人間関係の親から
全く理解されないのは、
本当に残念なことだ。
子供は親の分身でもないし、所有物でもない。
一人の独立した人間だ。
親子関係においても、
多種多様を受け入れて、
「色々な考え方があるんだね」
とお互いを尊重してもいいはず。
でも、あいにく、私たち親子は
そうすることができない。
私が親に対して一番残念に思うことは、
このことだ。