NZ生活 ― 最近、幸せな気持ちでいる時間が大分長くなった!

ニュージーランドに長年住んで、
最近、私が自分自身について
感じることがある。

それは、以前よりも、
幸せな気持ちで過ごす時間が
大分長くなったということ。

カリカリした気持ちも減り、
昔よりも、心に余裕が出た。

なぜ、そうなのか?

緑豊かな大自然に囲まれて、
生活環境が素晴らしいことも
あるだろう。

非難することで罪悪感や羞恥心を
私に植えつけようとする実親と
物理的にも、精神的にも
離れたお陰もあるだろう。

しかし、それよりも、
もっと大きな理由がある、
と私には思える。

その理由は、私の周りには、
幸せで人生を楽しむ人たちが
沢山いること。

そんな人たちが近くにいれば、
私まで良い影響を受け、
ハッピーオーラを分けて貰える。

私は、彼らから
人生をエンジョーイするための
メンタリティーを
教えて貰ったように感じている。

そのお陰で、
私の心の在り方も大分変った。

だから、より幸せで、心が穏やかで、
心地よく過ごす時間が
増えたと感じるのだ。

今回は、
私が今まで深く関わってきた
ニュージーランドの人たちから、
どんなメンタリティーを
教えて頂いたか?について。

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昔の私は、物事に臨む際、
その結果ばかりを
重視する傾向にあった。

何をやるにしても、
結果が一番重要だ
と考えていた。

良い結果を出せれば、
その結果に至るまでのプロセスは、
さほど重要ではないと思っていた。

もちろん、どんなことでも、
結果が良い方が望ましい。

不合格になるよりも、
合格した方がいいし、

50点を取るよりも、
80点取れた方がずっといい。

良い結果を出すことが
素晴らしいのは確かだ。

しかし、結果ばかりを
重視し過ぎて、
それに執着してしまえば、

やっている活動そのものを
楽しむことは難しい。

結果に気を取られて、
やっている最中でも、
スコアボードを
ちょくちょく確認して、

途中経過に
一喜一憂してしまうからだ。

物事が順調に進んでいれば、
有頂天になって喜ぶ。

しかし、そうでなければ、
酷く落ち込む。

結果第一の姿勢は、
ジェットコースターの
動きに似ていて、
気持ちの浮き沈みが激しい。

こういう状態は、
心の平安からはほど遠い。

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昔の私は、
自分が他人にどう思われるか?
体裁を気にし過ぎていた。

自分がやっていることも
立派に見えること、
良く思われることの方が
大切だと考えていた。

やっていることが
そんなに面白くなくても、
体裁が良ければ、
やった方がよい。

そして、逆に、
自分が楽しめることでも、
体裁が悪ければ、
やらない方がよいと判断した。

何かやりたいな
と思うことがあっても、
尻込みしてやらないことも多かった。

なぜなら、自分には
上手くできない
と分かっていたからだ。

やらなければ、
恥をさらすこともない。

他人に笑われることも、
馬鹿にされることもない。

自分のプライドを
傷つけないためには、

何もやらないのが
一番無難だと考えた。

誰かが何か楽しそうなことを
していて、「ああ、いいな~」
と羨ましく思っても、

「イヤ、私はあの人のように
上手にできないから、
やらないのが無難だ」と
自分に言い聞かせた。

しかし、心のどこかでは、
体裁を気にするために、

やってみたいと思うことを
チャレンジしない自分に対して、
後ろめたさのようなものもあった。

日々の生活に追われて、
「忙しいから」と言って、
長い間、何も挑戦しないことを
正当化している自分がいた。

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しかし、そんな私でも、
長年のNZ生活の中で、

深く関わったNZの人たちの
影響を受けて、
徐々に気持ちが変わってきた。

「上手く踊れなくたって、
いいんだよ。踊りたかったら、
一緒に踊ろうよ」と踊りの輪に
快く入れてくれるNZの人たち。

「失敗したって、いいんだよ。
恥ずかしくない!」

「失敗したって、学ぶことが
沢山あるから、やった方がいい」
と前向きに構えるNZの人たち。

「自分が楽しいと思うことを
沢山やろうよ」

「楽しい一日の積み重ねが、
最終的には楽しい人生に
つながるから」と言って、

自分の楽しいことを
大切にするNZの人たち。

この人たちの姿を見て、
近くで生活していたら、
私までがそのような気持ちに
変わってきた。

やってみたいけれど、
上手くできないだろう
と思われる時、

やらない選択をすれば、
恥さらしをすることはない。

それにより、他人から
馬鹿にされることもない。

だから、今までは、
体裁を守るために、
やらない方がマシだと思った。

しかし、自分の小さなプライドを
守るために、何もやらないのは、
楽しい経験を
逃してしまうのと同じだ。

それは、非常に勿体ないこと。

そんなちっぽけなプライドを
守るために、

興味深く思うことを断念するのは、
とても残念だ
と考えるようになった。

50代後半になった今、
このまま挑戦したいと思うことを
ずっとやらずにいれば、

人生の最後に
後悔があるのでは?
と危機感を抱いたほどだ。

そんなのは、絶対に嫌だ!

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私は最近、
YouTubeやブログを始めて、
小さな情報発信をするようになった。

これは、私が長年やってみたい
と心のどこかで思っていたこと。

正直言って、今の私には、
自分が伝えたいと思うことを
動画や文章の形で
上手く表現することができない。

そのため、
もどかしさを感じることも
しばしばだ。

でも、やはり、
自分から情報発信することは、
私がやってみたかったこと。

できる範囲で細々とでも
情報発信するようになり、

充実した時間を過ごすことも
多くなったと感じている。

どんな小さなことでも、
今までできなかったことが
できるようになった時には、

喜びを感じられる。

たとえそれが
立派なことでなくても、

傍から見れば
大したことでなくても、

自分では、それなりの
達成感や、充実感がある。

自分が満足できれば、
それでいいんだ。

他人基準ではなく、
自分基準でいいんだ。

そう思える瞬間があった。

他人にどう思われるか?
恥ずかしくないか?
と心配していた頃よりも、

ずっと有意義な日々を
過ごせるようになったと思う。

そう感じる今では、
昔私が重要だと考えていた
結果重視や、体裁を気にすることよりも、

人生には
もっと大切なことがある 
と思うようになった。

そのもっと大切なこととは、

他人が自分をどう思うか?
よりも、

自分自身がどのように感じるか? 
の方が重要だということ。

自分の小さなプライドを
守るために、

何もやらないことは
勿体ないということ。

上手にできなくても、
自分が楽しむことが
一番大切なんだという気持ちに
切り替わった。

下手なプライドは捨て、
結果よりも、やる活動そのものを
楽しめばいいと
割り切れるようになった。

それ以来、
けっこう色々なことに挑戦して、
身軽に動けるようになった。

面白そうだと思った時には
「やってみて、失敗したら
どうしよう」と心配することも
少なくなった。

だから、今では、
気軽に色々なことに着手できる。

そのお陰で、日々の生活の中で
充実感や満足感を得ることも
しばしばだ。

やることの結果や
人にどう思われるかの
体裁よりも、

自分自身がそれをして
楽しめるのかに重きを置けば、

自分の感じ方も
今までとは大分違ってくる。

ああ楽しいな、
ああ幸せだなと思うことも、
今までよりも、ずっと多い。

「これは、私の周囲にいる
NZの人たちが、
普通にやっていることだ」
と最近、私は気づいた。

彼らは、
自分が楽しめるのか?
満足できるのか?
充実感を感じられるのか?
を非常に大切にしている。

だから、
幸せを感じて過ごす時間が
多いのだ。

これこそが、人生において
重要なことではないか?
と私には思えてきた。

なぜなら、楽しい時間が多い日は、
「今日は幸せだったな」
と感じることができる。

そして、そんな日が沢山ある月は、
「今月は幸せだったな」と思える。

更に、そんな幸せな月が多い年は、
「今年は良い年だった」
と満足できる。

人生は一日一日の積み重ね。

幸せな時間が
多ければ多いほど、

人生も豊かで幸せなものになる
と確信できたからだ。

人それぞれ幸せの定義は
違うけれど、

最近の私にとっては、
できるだけ楽しい時間、
充実して満足感のある時間を
多くすることが、

幸せな人生を歩むことだ
と考えるようになった。

こう思うようになったのは、
私の周囲にいる
多くのNZ人に影響された結果だ。

毎日の生活の中で、
より長い時間を幸せに感じて、

充実感を味わうことが多い方が、
人生はより楽しくなる。

結果重視、体裁重視という
昔の私の心の在り方から、

プロセス重視、自分自身の
満足度重視の方向へ変わって以来、

私はより長い時間を
心穏やかに、幸せに過ごしている。